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公人

綾部 健太郎

綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年9月6日 - 1972年3月24日)は日本の政治家、第53代衆議院議長(在任期間・1966年12月3日 - 1966年12月27日)。香川県出身(出生地及び選挙区は大分県)。正三位勲一等。
戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(総裁・久原房之助)に与した。政党解消後は翼賛議員同盟・翼賛政治会・大日本政治会に所属した。
終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄・西川貞一・依光好秋・高畠亀太郎・中井一夫・三善信房の6名のみである[1]。また綾部と同じく戦前政友会正統派に所属していた三土忠造は進歩党と連携し、進歩党が与党となった幣原内閣にも入閣したが、進歩党の結党自体には参加しなかった。
戦後、自由民主党において藤山派に所属し、総参謀格として重きをなす。元外相・重光葵の政界復帰のために自分の選挙地盤を譲って支援するなど、恬淡とした人柄で野党にも評価された。
作家の菊池寛とは旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)以来の親友。映画『末は博士か大臣か』(1963年大映/監督・島耕二、主演・フランキー堺)のモデルはこの2人とされる。


三土 忠造

三土 忠造(みつち ちゅうぞう、明治4年6月25日(1871年8月11日)−昭和23年(1948年)4月1日)は、明治から昭和にかけての日本の政治家。
香川県大内郡水主村(現在の東かがわ市)出身。
長年立憲政友会の衆議院議員として党内にて重きをなし、内閣書記官長を振り出しに文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣(一時運輸大臣も兼務)を歴任した戦前政界の重鎮である。
弟に陸軍幹部でありながら野に下って軍部の台頭に抵抗した同じ政友会代議士の宮脇長吉と内務官僚で後に千葉県知事などを歴任した宮脇梅吉がいる。
なお、衆議院議員初当選当時は宮脇姓であったが、1911年に三土(「みつち」、みと・みど等は誤り)家に養子入りしたために三土姓を名乗った。
孫に東京理科大学理学部教授を務めた三土修平がいる。また、紀行作家宮脇俊三(長吉の三男)は甥に当たる。
香川県観音寺市の、日本で唯一の石積みアーチ式ダム豊稔池の名付け親である。


矢野 庄太郎

矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年1月10日 - 1949年6月21日)は、昭和期の日本の男性政治家。元大蔵大臣。
香川県三豊郡桑山村(現・三豊市)に農家の長男として生まれる。教員養成所を出て地元で代用教員を務めた後上京、1907年明治大学法科を卒業する。苦学しながら努力し、在学中に高等文官試験にパスしている。
1911年内務省に入省。台湾総督府書記官、香川県警務課長、同県木田郡長を務めた後、官僚としての前途に行き詰まりを感じ、実業界に転ずるべく1918年に内務省を退職、同年広島の「勝光山窯業」を買収し代表取締役に就任した。
1930年、第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧香川2区から立候補し初当選する。以後当選7回。民政党総務、大蔵参与官(1939年)等を歴任する。1940年に米国・欧州を視察し、充実した国力を目にして戦争反対を説くようになる。政党解消後は翼賛政治に批判的な立場をとり、1942年の翼賛選挙では非推薦で当選した。
戦後は鳩山一郎・植原悦二郎・安藤正純らと新党結成に動き、日本自由党結成に参加する。同年10月発足の幣原内閣では、芦田均厚相の下で厚生政務次官を務める。1947年自由党が分裂すると、矢野は芦田に従って離党、民主党結成に参加し、政務調査会長に就任する。同年6月片山内閣にて大蔵大臣として入閣するが、就任半月後に過労による脳溢血で倒れ、1ヶ月足らずで辞任を余儀なくされた。その後は民主党顧問などを務める。

大平 正芳

大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)などを歴任した。

宮脇 長吉

宮脇 長吉(みやわき ちょうきち、1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の軍人・政治家。紀行作家宮脇俊三の父。
香川県の農家の四男として産まれる。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家三土忠造(漢学者だった三土家の養子となった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想した)がおり、地元では優秀な兄弟として知られていた。
1903年に陸軍士官学校を卒業、日露戦争の決死隊長などで戦功を挙げた他、陸軍士官学校の教官などを歴任したが、陸軍大佐を最後に退役。その後初の普通選挙となった1928年の第16回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補し、当選。その後も5回連続当選を果たしている。軍人出身ながら自由主義者と交流が深く、軍の勢力拡大・政治介入には反対の立場であった。息子俊三の著作『時刻表昭和史』には、列車内で不遜な態度を取る将校と対立する場面が描かれている。
1938年には、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。これは軍による議会軽視を象徴する事件として記憶されている(佐藤は陸軍学校教官時代の教え子にあたる)。
また1940年に斎藤隆夫議員が反軍演説で除名された際にも、牧野良三や芦田均らと共に反対票を投じている(反対者はたった7名しかいなかった)。
1941年には翼賛議員同盟に対抗した鳩山一郎を中心とする同交会結成に参加。
このように反軍的な立場であったために、1942年の翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けられずに落選。さらに戦後は元軍人であったために公職追放を受けて立候補できなかった。戦前は自由主義者であるがゆえに、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまったのである。
その後は鉱山会社の経営に携わっていたが1953年、唯一の残った男子である三男・俊三(既に長男・次男は病死していた)が肺結核で倒れたことに落胆し、高血圧だったにも関わらず医師の勧めも無視して無理を重ねた。そのため東海道線の車内で脳溢血に倒れ、失意のうちに死去した。


津島 壽一

津島 壽一(つしま じゅいち、1888年1月1日 - 1967年2月7日)は、日本の官僚、政治家。
香川県阿野郡坂出村(のち坂出市)生まれ。旧制丸亀中学、旧制一高、東大法学部卒業後、大蔵省入省。昭和戦前期の代表的な国際金融官僚であり、金解禁から昭和恐慌を経て高橋財政に至るまでの期間、欧米の駐在財務官などの職にあって、一貫して第一線で実務に関わった。大蔵次官、日銀副総裁、北支那開発総裁などを経て、1945年、小磯内閣で大蔵大臣。
終戦後の東久邇宮内閣で再び大蔵大臣を務めた。東南アジアとの戦後賠償問題では主席全権大使として交渉にあたった。その後参議院議員として第1次岸内閣改造内閣の防衛庁長官。他に日本棋院総裁、日本体育協会会長(1962年アジア競技大会についての混乱の中、辞任した。詳細はアジア競技大会、1962年アジア競技大会を参照。)、初代全日本交通安全協会会長などを歴任した。郷里の後輩である大平正芳を勧めて大蔵省に入省させたことや、谷崎潤一郎の親友としても知られた。正三位勲一等旭日大綬章。

西尾 末広

西尾 末広(にしお すえひろ、1891年(明治24年)3月28日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の労働運動家・政治家。
香川県香川郡雌雄島村(現・高松市)の女木島(通称「鬼が島」)出身。なお、高松市は同じく日本社会党の最高幹部となる成田知巳の出身地でもある。
「政権を取らない政党は、ネズミを捕らぬネコと同じだ」という言葉を残している。
知る人ぞ知る逸話として、日本経済新聞紙上にペンネームで映画評論を執筆しては投稿する程のシネ・フィルであったという。1968年の民社党委員長退任時、NETテレビ(現・テレビ朝日)のモーニングショーに出演中、委員長辞任を生放送のスタジオで告白。司会の木島則夫(後に木島自身も民社党から出馬している)らが呆気に取られる中、「僕の好きな『ローハイド』のテーマをリクエストします。」と言い放ち、BGMの流れる中スタジオを後にした。


三木 武吉

三木 武吉(みき ぶきち、1884年8月15日 - 1956年7月4日)は、日本の政治家。鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った。
愛媛県香川郡高松(現在の香川県高松市)に骨董商・三木古門の長男として生まれる。三木武夫とは縁戚関係は無い。


平井 太郎

平井 太郎(ひらい たろう、1905年7月17日 - 1973年12月4日)は、日本の政治家。元参議院議員(4期連続当選)。実業家。香川県木田郡田中村(現・三木町)出身。
1928年 明治大学商科卒業
実家の建設業を継いだ後、香川県高松商工会議所会頭・四国商工会議所連合会会長・香川県観光協会会長等を歴任
1950年 第2回参議院議員通常選挙全国区に自由党から立候補し初当選
1953年 自由党参議院幹事長
1953年 ラジオ四国(後にラジオ香川に商号変更。現・西日本放送)を創設し、代表取締役社長に就任。のちに西日本放送会長となった
このほか四国新聞社社長・瀬戸内航空社長・四国電力取締役等を歴任
1955年 保守合同により自由民主党参議院議員となる
1956年 第4回参議院議員通常選挙では香川県選挙区に転じて再選
1956年〜1957年 石橋内閣及び第1次岸内閣の郵政大臣を務める
1958年〜1962年 参議院副議長
参議院では自民党参議院幹事長・自民党参議院議員会長も務めた
1973年、参議院議員4期目在職中に死去。香川県木田郡三木町名誉町民
2004年、香川県の歴史や文化に貢献した人物として「讃岐の百人」に選定される
地元では第二次世界大戦後の香川県の産業界を牽引した人物の一人として著名

成田知巳

成田 知巳(なりた ともみ、1912年9月15日 - 1979年3月9日)は香川県高松市出身の日本の政治家。日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。
出生から政治家デビューまで
肥料商で高松市議会議員をつとめた成田鷹次の子として生まれる。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て、第四高等学校(現・金沢大学)、東京帝国大学(現・東京大学)法学部へと進む。高松中では野球部のマネージャーも務めており、1学年上に三原脩がいた。大学卒業後、三井鉱山に入社する。1941年、三井化学に転属となり、1943年には文書課長に昇進した。第四高等学校時代には後に社会党の参議院議員となる亀田得治と同じクラスだった。
1946年の総選挙に無所属で出馬し落選。翌1947年の総選挙では、社会党から立候補し当選。以後、連続12回当選。社会党内では鈴木茂三郎派に属した。1955年10月社会党が統一されると、総務局長に就任し、1960年、浅沼稲次郎委員長の下で政策審議会長に任命された。
構造改革派として
江田三郎書記長が構造改革論を唱えると、成田はこれに賛同し、江田とともに一躍、マスコミの脚光を浴びることとなった。1962年、江田が書記長を辞任すると、江田の名代として書記長に就任した。
しかし、次第に右派と接近していく江田とは対照的に、成田は左派的な発想から抜け出すことが出来ず、「闘う構造改革」などを唱え、次第に主張は社会主義協会と変わらなくなってしまった。1964年1月1日付の『社会新報』に、社会党の弱点として「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」の3つを指摘し、「成田三原則」と名づけられたが、それらの具体的な処方箋を示すことは出来なかった。
社会党委員長として
1967年、臨時総会で健康保険法改正案の決議を巡って対立した責任を取って佐々木更三委員長はじめ、執行部が退陣すると、成田も書記長を辞任した。しかし、1968年8月、勝間田清一委員長が参院選で社会党が敗北した責任を取って辞任したため、委員長に就任し、書記長に江田三郎を指名した。政治家としてのキャリアでは上である江田が成田の下に配置されたこの人事は「逆子人事」と呼ばれた。
1969年の総選挙で100議席割れの大敗を喫し、辞意を表明するが、佐々木更三派や社会主義協会に受けが良い成田は辞任を認められず、その後も佐々木派や社会主義協会の支持で委員長を続投していくこととなった。江田が委員長選挙に挑戦するため書記長を辞任すると、石橋政嗣を書記長に任命し、以後、成田-石橋のコンビで党を運営していった。
しかし、党内では親中派の佐々木更三派と親ソ派の社会主義協会が対立をはじめ、1974年には江田と佐々木が和解して、反協会派を結成すると、反協会派と社会主義協会の間でも対立が始まった。成田はこうした党内の対立をおさえるためのリーダーシップをほとんど発揮することが出来なかった。
成田委員長の時代は、革新自治体が各地で数多く誕生していた時期で、「地方から中央を包囲する」などと意気盛んな声が社会党内から出されていたが、実際には社会党の地方組織は、革新自治体のパートナーであった公明党や日本共産党に侵食され、社会党組織の疲弊が進んでいた。
1977年、参院選敗北の責任を負って委員長を辞任。1979年、白血病で急死。

福家俊一

福家 俊一(ふけ としいち、1912年3月3日 - 1987年4月17日)は、香川県高松市出身の政治家である。衆議院議員選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。
来歴・人物
旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務め、1937年に上海の国策新聞「大陸新報」社長に就任。1942年の第21回衆議院議員総選挙に、旧東京1区から立候補し初当選。選挙の際には、里見甫の支援があったとされている。
戦後は公職追放となる。追放解除後は選挙区を故郷の香川1区に移し日本再建連盟公認で立候補するが落選。1958年、政界復帰する。自由民主党国会対策副委員長、第2次池田内閣の運輸政務次官を歴任し、福田派の参謀となるが、1984年10月に無派閥となる。1986年の総選挙で落選し、翌年75歳で死去。

加藤 常太郎

加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年4月30日 ? 1990年10月11日)は、昭和期の政治家。元労働大臣。衆議院議員の大野功統、参議院議員の関谷勝嗣はそれぞれ娘婿。
来歴・人物
香川県高松市生まれ。高松商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)を経て、満州の「奉天外国語学堂」にて中国語を学ぶ。卒業後は家業の加藤海運社長を務める。
1947年、三木武吉の勧めもあって、第1回参議院議員通常選挙に日本自由党から香川県選挙区にて立候補し3年任期の議員として当選する(1期)。翌年には運輸政務次官に就任した。1950年の第2回参議院議員通常選挙で落選すると衆議院に転じ、1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で当選、国政に返り咲く。鳩山一郎派に属していたが、鳩山退陣後は大久保留次郎らとともに河野一郎一派と袂を分かち、石橋湛山派を形成する。1956年の自由民主党総裁選挙では大久保・石田博英とともに「石橋派三人男」の1人として猛烈な多数派工作に尽力し、石橋政権樹立に貢献する。
その後は何度か入閣候補に挙げられたが果たせず、不遇の時代が続いた。石橋派解消後はしばらく無派閥でいた後、三木武夫派に加入する。1972年第2次田中角榮内閣で労働大臣として入閣する。1975年に勲一等旭日大綬章受章。
長らく衆議院逓信委員会委員を務め、かつては新谷寅三郎らとともに、逓信族議員のボス的存在であった。30年以上の長きにわたり衆議院議員を務め、1986年に引退。1990年10月11日に死去。享年85。


平井 卓志

平井 卓志(ひらい たくし、1931年11月22日 - 2009年7月16日)は日本の政治家。元参議院議員(連続5期当選)。元労働大臣。実業家。四国新聞社社主・取締役会長、西日本放送代表取締役社長兼最高経営責任者(CEO)。岳父の平井太郎は元参議院議員。息子の平井卓也は現衆議院議員。旧姓は穴吹。

森田 一

森田 一(もりた はじめ、1934年5月14日 - )は日本の政治家、元自由民主党衆議院議員(当選8回)。香川県坂出市出身。大平正芳の娘婿にあたる。
経歴
1934年、香川県坂出市に内科医を営む父を持つ3人兄弟の長男として生まれる。地元の坂出高校に入学したが大学受験を考えた末、高松高校へ転校する。東京大学法学部卒業後の1957年大蔵省に入省。同期には保田博、的場順三、内海孚(財務官)、大山綱明(関税局長)など。
大蔵省出身の大平に見込まれて、大平の娘と1961年に結婚する。大蔵省銀行局保険第二課長などを経て退官し、大平の第一秘書となって内閣総理大臣秘書官などを務める。1980年、総選挙の真っ只中に総理大臣のままで急死した大平に代わって、第36回衆議院議員総選挙に補充立候補で急遽出馬、弔い選挙で大勝で初当選する。当選後は宏池会に所属。1987年に自治政務次官、1989年には運輸政務次官に就任。1996年、中選挙区制から小選挙区制が施行されると選挙区3に対して現職自民党議員が4名になるためコスタリカ方式をとることなく単独比例候補に回った。
2000年、第2次森内閣において運輸大臣兼北海道開発庁長官として初入閣。その運輸大臣在任中に起きたいわゆる加藤の乱では、現職閣僚ながら加藤紘一を支持。当時法務大臣だった山崎派の保岡興治と事前に打ち合わせをして、加藤と山崎拓が本会議で森内閣に不信任投票した場合には、その場で大臣を辞して行動を共にするために辞表を用意していた。結局、加藤と山崎が欠席戦術に切り替えたため、森田は本会議に出席して不信任決議に反対票を投じた。
その後は、少数派となった小里派に所属していたが、2005年の総選挙には出馬せずに政界を引退した。
2010年3月に、回顧記『心の一灯 回想の大平正芳その人と外交』(服部龍二・昇亜美子・中島琢磨編、第一法規)を公刊した。他に『文人宰相 大平正芳』(新井俊三共著、春秋社、1982年)がある。
不祥事
政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。


真鍋 賢二

真鍋 賢二(まなべ けんじ、1935年7月14日 - )は、日本の政治家。自由民主党前参議院議員(4期)。香川県仁尾町(現・三豊市)出身。
岐阜大学農学部農学科を卒業後に衆議院議員・大平正芳の秘書となる。1977年7月に参議院議員に初当選。1998年7月環境庁長官に就任。1993年に名古屋市がゴミ処分場として計画した藤前干潟の埋立てについて、長官在任直後の1998年8月「鳥類・海洋生物保護の立場から反対する」と当時としては異例の表明を行い、2000年の同計画中止のきっかけとなった。2005年のいわゆる郵政国会では、8月8日の郵政民営化関係6法案の参議院本会議採決にて反対票を投じた。
環境庁長官時代の経験を綴った著書『優優飛翔―現場主義大臣の直言』がある。

大野 功統

大野 功統(おおの よしのり、1935年10月16日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8期)。元防衛庁長官(第70・71代)。
来歴
台湾生まれ。終戦後、日本に引き揚げ香川県で暮らす。高松第一高等学校、東京大学法学部卒業後、1958年大蔵省へ。同期入省に、尾崎護、角谷正彦、柿澤弘治など。フルブライト奨学生で渡米経験あり。国際機構課長を経て1978年に香川県知事選に出馬(落選)。1986年に衆議院議員に初当選。2004年に第2次小泉改造内閣で防衛庁長官に任命された。
2007年12月、北朝鮮との国交正常化実現を目指す議員連盟、自民党朝鮮半島問題小委員会を立ち上げ、副委員長に就任した。

木村 義雄

木村 義雄(きむら よしお、1948年4月17日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の前衆議院議員。元厚生労働副大臣。山崎派所属。
来歴
香川県さぬき市津田町出身。父は元衆議院議員の木村武千代。
東京学芸大学附属高等学校、中央大学商学部卒業。1972年に中央大学を卒業し、住友銀行に入社。1975年に退社して、父・武千代の秘書となり、1983年から1986年6月まで、香川県議会議員を務めた。1986年7月の第38回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選、以降連続7回当選。
党広報本部長、党外国人労働者等特別委員長、党財務委員長などを歴任。現在、自民党香川県第二選挙区支部長。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙(香川県第2区)では、公明党の推薦も受けたが、民主党新人の玉木雄一郎に敗れ落選。比例代表での復活当選もならず、23年間守ってきた議席を失った。
2010年7月11日に行われた第22回参議院議員通常選挙には自由民主党の比例区から出馬するも落選した。

喜岡淳

喜岡 淳(きおか じゅん、1952年 - )は日本の政治家。日本社会党参議院議員(当選1回)。人権活動家。香川県高松市出身。
経歴
1971年 - 高松第一高等学校卒業。
1975年 - 大阪市立大学商学部卒業。
1976年 - 日本社会党に入党。香川県本部副委員長などを務める。
1983年6月 - 第13回参議院議員通常選挙で落選。
1986年7月 - 第14回参議院議員通常選挙で落選。
1989年7月 - 第15回参議院議員通常選挙で初当選。
1994年6月 - 村山内閣で環境政務次官に就任。
1995年7月 - 第17回参議院議員通常選挙で落選。
1998年7月 - 第19回参議院議員通常選挙で比例区に転出し落選、政界引退。

平井 卓也

平井 卓也(ひらい たくや、1958年1月25日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。
概要
香川県高松市出身。祖父の太郎、父の卓志は参議院議員。
高松第一高等学校を経て、1980年(昭和55年)に上智大学外国語学部英語学科を卒業後、電通に入社。その後親族の経営する高松中央高等学校の理事長や西日本放送の代表取締役社長などを務めた後、1996年(平成8年)の衆院選に香川1区から新進党公認で出馬したが、自民党公認の藤本孝雄に約5000票差で敗れた。
2000年(平成12年)の衆院選では再び香川1区から出馬し、無所属ながら自民党加藤派の支援を受け、自民党公認の藤本孝雄らを破り初当選した。
初当選後は森田健作が世話人を務めた21世紀クラブに参画したが森内閣への不信任決議案提出騒動、いわゆる「加藤の乱」では不信任案に反対し、その見返りとして自民党に入党した。森内閣への不信任案に反対した立場を取った為、加藤派から分裂した堀内派に参画した。
2003年(平成15年)の衆院選では香川1区から自民党公認で出馬し(藤本孝雄は比例代表四国ブロックに転出)、当選。
2005年(平成17年)の衆院選で3選。その後発足した第3次小泉内閣の内閣府大臣政務官に就任。2007年には安倍内閣改造内閣の国土交通副大臣に就任した。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に公明党の推薦も受け[1]自由民主党から出馬。小選挙区では小川淳也に敗れたが、比例代表の復活当選で4期目の当選。
2010年4月1日、宏池会を退会し、無派閥となった。

小川 淳也

小川 淳也(おがわ じゅんや、1971年4月18日 - )は日本の政治家。民主党所属の衆議院議員。当選2回。鳩山由紀夫内閣の総務大臣政務官。
経歴
1971年4月18日に香川県高松市に生まれる。
1990年3月、香川県立高松高等学校卒業。
1994年3月、東京大学法学部卒業。
1994年4月、自治省に入省。
2001年4月、春日井市役所に企画調整部長として出向。
2003年7月、総務省を退職。
2003年11月9日に行われた第43回衆議院議員総選挙に民主党公認として香川1区から出馬も自民党の平井卓也に敗れ落選した。
2005年9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙に同じく香川1区から出馬。小選挙区では落選するも比例代表制の復活当選により初当選を果たした。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に香川1区から出馬。3度目の挑戦で平井卓也を破り、小選挙区での初当選(通算2期目)を果たした。
2009年9月18日、鳩山由紀夫内閣で、総務大臣政務官。
2010年(平成22年)1月石川知裕代議士の逮捕を考える会に参加

薗浦 健太郎

薗浦 健太郎(そのうら けんたろう、1972年6月3日 - )は、日本の政治家。前衆議院議員(1期)。麻生太郎の側近議員の1人である。
概要
香川県高松市の町工場の息子として生まれる(現在の本籍は千葉県市川市)。1996年東京大学法学部を卒業。読売新聞社に入社し、千葉支局に配属。後に県庁の担当となり、知事選を取材。このとき、自民党千葉県連の選対委員長だった森英介と知り合う。その後政治部に配属され、小泉純一郎の総理番、厚生労働省担当を経験。 交際の続いていた森英介の進めにより2003年7月に同社を退職し、同年11月9日の第43回衆議院議員総選挙に狩野勝に代わり千葉5区より出馬。しかし、民主党の新人村越祐民に敗れ落選。次の選挙まで、麻生太郎総務大臣の秘書として修行をつむ。2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙に千葉5区より再出馬し、小泉フィーバーという追風もあり小選挙区で村越に勝利した。
当選後は、森英介、麻生太郎らと同じ為公会(麻生派)に所属。また、同年に初当選した新人議員で83会を組織し、これに所属。その中でも保守系の議員が組織した「伝統と創造の会」にも参加し、幹事長を務めている。
2007年12月には、中川昭一が会長を務める真・保守政策研究会にも発起人の一人として参加した。
2006年、2007年、2008年自由民主党総裁選挙共に、麻生太郎を支持した。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に自民党から出馬。出馬にあたっては公明党の推薦も受けるも落選。

山内 俊夫

山内 俊夫(やまうち としお、1946年12月17日 - )は、香川県丸亀市出身の実業家、政治家。新党改革所属の前参議院議員。自称四国のポパイ。
略歴
1969年 早稲田大学教育学部教育学科卒。セーラー広告勤務を経て、家業の山内不動産を承継、瀬戸大橋タワー副社長等歴任した。
1972年 丸亀青年会議所入会。その後青年会議所四国地区協議会会長、香川県社会教育委員などを歴任。 1991年 香川県議会議員に初当選、1995年に再選。
1998年 第18回参議院議員通常選挙(香川県選挙区)に自民党公認、公明党推薦で初当選。地元政財界大物の平井卓志(当時自由党)の政界引退に依るところが大であった。
2001年 総務大臣政務官就任。
2004年7月 第19回参議院議員通常選挙で再選。
2005年8月8日 郵政民営化法案の参議院本会議採決では、党執行部の方針に造反し欠席した。
2007年8月 自由民主党副幹事長、参議院総務委員会委員長に就任。
2008年8月 福田康夫内閣改造内閣にて文部科学副大臣に就任。
2009年9月23日 2010年7月の第22回参議院議員通常選挙には出馬せず、政界引退を表明。
2009年12月25日には自由民主党からの離党と、改革クラブへの入党意志を表明。改革クラブが政党要件を喪失し、政党助成金を受領できなくなるのを救済するための移籍(次期参院選に宮崎県選挙区から自民党公認で立候補を予定している松下新平とのトレード)と目された。
2010年1月5日に自由民主党を離党、1月8日に改革クラブに入党。4月23日には改革クラブが新党改革に名称変更し、山内もこれに参加。党事務総長と国会対策委員長に就任した。

玉木 雄一郎

玉木 雄一郎(たまき ゆういちろう、1969年5月1日 - )は、日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(1期)。
経歴
1969年(昭和44年)5月1日 - 香川県大川郡寒川町神前(現さぬき市寒川町神前)出身。
香川県立高松高等学校を経て、1993年(平成5年)、東京大学法学部卒業。
1993年(平成5年) - 大蔵省入省。
1997年(平成9年) - ハーバード大学大学院(ケネディスクール)卒業後、外務省中近東第一課。
2001年(平成13年) - 大阪国税局総務課長。
2002年(平成14年) - 内閣府特命担当大臣秘書専門官。
2005年(平成17年)8月 - 財務省主計局主査を最後に、財務省退職し、第44回衆議院議員総選挙(香川県第2区)に立候補したが、自由民主党木村義雄に敗れる。
2009年(平成21年) - 第45回衆議院議員総選挙に立候補し、木村義雄に雪辱を果たし、初当選。
2009年(平成21年)10月 - 農林水産委員会所属。

山下 芳生

山下 芳生(やました よしき、1960年2月27日 - )は、日本共産党所属の参議院議員(2期)。通名:山下よしき。香川県善通寺市出身。香川県立善通寺第一高等学校を経て鳥取大学農学部農業工学科卒業。生活協同組合職員、日本民主青年同盟北河内地区委員長・大阪府副委員長等をつとめたのち、1995年に大阪府選挙区から参議院議員に初当選。
その後再選を目指した2001年の参議院議員選挙で大阪選挙区から立候補したが落選。その後日本共産党常任幹部会委員・同党衆議院大阪5区(此花区、西淀川区、淀川区、東淀川区)くらし対策本部長等、同党大阪府副委員長を経て、2007年の参議院議員選挙では比例区から立候補し、2期目の当選。元参議院国会対策委員長。日朝国交正常化推進議員連盟幹事。2010年1月開催の日本共産党第25回大会で中央委員に再任され、4年振りに常任幹部会委員に復帰。書記局員、党建設委員会副責任者、職場(労働)対策委員会責任者となった。

磯崎 仁彦

磯崎 仁彦(いそざき よしひこ、1957年9月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(1回)。
概要
香川県丸亀市出身。東京大学法学部卒業。 卒業後、全日本空輸に入社。25年間勤務し、リスクマネジメント部長などを歴任。
2010年、自由民主党香川県連が行った次期参議院選挙の公募に応募し県議らを押さえて合格し公認候補に選出される。当初は知名度等で不安視されたものの公明党との政策協定を結んで比例候補であった谷合正明との連携等もあって徐々に浸透を見せた。
2010年の第22回参議院議員通常選挙にて自由民主党公認で香川県選挙区より出馬し初当選。

大久保 ェ之丞

大久保 ェ之丞(おおくぼ じんのじょう、1849年(嘉永2年) - 1891年(明治24年)12月14日)は明治期日本の政治家。尽誠学園の創始者大久保彦三郎は実弟。明治初期に四国新道・香川用水・瀬戸大橋を提唱したことで知られる。
略歴
1849年(嘉永2年)8月16日、讃岐国三野郡財田上村戸川(現在の香川県三豊市財田町財田上字戸川)の大地主であった大久保森冶の三男として生まれる。明治5年5月財田村吏員、その後郡吏員等を経て、1888年(明治21年)に愛媛県議会議員、翌年、香川県が愛媛県から分離し香川県議会議員となる。この間、私財を投じて道路・橋梁を整備、奨学資金の貸付け、病院建設への資金の寄贈等又、讃岐鉄道・北海道移住などを提唱・実行する。1889年(明治22年)5月23日、讃岐鉄道開通式での祝辞で瀬戸大橋の構想を披露している。1891年(明治24年)、議会での演説中に倒れ、12月14日42歳で死去。
業績
四国新道の建設−自らハンドレベルを持ち測量を行い、私財を投じて完成させた。明治18年に起工、明治23年に讃岐(現在の香川県)の道路延長38382mと阿波(現在の徳島県)の道路延長31434mが竣工している。
北海道への移住−自ら資金を出し、毎年数百人を北海道に移住させた。
エピソード
香川用水の計画を提唱した際に「笑わしゃんすな百早年先は財田の山から川舟出して月の世界へ往来する」という都々逸を歌っている。
死後
父祖から受け継いだ財産はほとんどが工事金不足の穴埋めに使われたため、残された家族は三度の食事にも事欠いたという。
大久保の構想した四国新道は、1894年(明治27年)に全道開通。香川用水は1974年(昭和49年)に、瀬戸大橋は1988年(昭和63年)に完成している。

金子 正則

金子 正則(かねこ まさのり、1907年3月29日 - 1996年10月21日)は、日本の政治家、判事。6期24年の間、香川県知事を務めた。
生涯
1907年、香川県丸亀市出身。香川県立丸亀中学校を経て1929年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年に大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年に旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年に札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年に長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年に東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。
戦後、1946年に東京控訴院部長となって翌日付で退職し、郷里の丸亀市で弁護士を開業した。翌1947年に香川県副知事に就任。1950年に香川県知事選挙に出馬し、当選。6期24年にわたって知事を務めた。在任中は吉野川から香川用水を引き、香川医科大学の開設を推進するなどした。1962年の3選時は全国の知事選で初の無投票で当選している。1963年に全国知事会の副会長に就任。5選目の1966年8月の知事選挙と県議会選挙で公職選挙法違反で県議や高松市議が複数逮捕され、同年12月に社会党などから不信任決議案を提出・否決されている。7選を目指した1974年の選挙で野党各党の推す前川忠夫に敗れ、引退。
1976年に金子法律事務所を開業し、翌1977年に勲一等瑞宝章を受章。1980年に香川県名誉県民となる。1996年10月21日、心不全のため89歳で逝去。
交友関係など
イサム・ノグチや猪熊弦一郎らの芸術家と交遊があり、1958年の香川県庁舎(現・東館)建設にあたっては猪熊の助言で丹下健三に設計を任せ、壁画を猪熊が制作している。また、知事在任中に香川県文化会館や香川県立丸亀高等学校武道館を設計した大江宏や、芦原義信、浅田孝らの建築家とも交流があった。
県知事在職中、県の特産品として讃岐うどんのPRに率先して取り組んだことも知られている。

前川 忠夫

前川 忠夫(まえかわ ただお、1909年2月1日 - 1988年6月25日)は日本の政治家、農学者。香川大学学長や香川県知事を務めた。
生涯
1909年、香川県三豊郡上高瀬村(現・三豊市)で生まれる。旧制山形高校(現・山形大学)を経て、1935年に東京帝國大学(現・東京大学)農学部を卒業。専門は農業工学で、岩手大学教授などを務めている。1955年に香川大学農学部教授となり、農学部長を経て1964年に学長に就任。
1974年に社会党、共産党、民社党、公明党などの推薦を得て香川県知事選挙に出馬し、7選をめざした金子正則を破って初当選した。全国7番目の革新知事であり、老人医療費の対象の2歳引き下げや国指定でない難病の医療費の無料化などを行なった。多選回避や高齢などを理由に、3選後の1986年に引退。
豊島における産業廃棄物処理場の建設反対運動に対し、「豊島の海は青く、空気は綺麗だが、住民の心は灰色だ」との発言があった。
肺癌による呼吸不全のため、1988年に79歳で逝去。

平井 城一

平井 城一 (ひらい じょういち、1922年12月15日 - 1999年7月29日)は日本の政治家。香川県知事を3期12年間にわたって務めた。
生涯
1922年、香川県高松市出身。東京帝國大学を中退し、香川県庁に入庁。企画部長や出納長、副知事を歴任。1986年に前知事の前川忠夫が引退すると、自民党、社会党、公明党、民社党の推薦を得て香川県知事に当選。3期12年を務めた。在任中は、瀬戸大橋、高松空港、四国横断自動車道のいわゆる県の三大プロジェクトの実現に尽力した。高松空港では、大型ジェット機に対応できる四国初の2500m滑走路を整備している。その後もサンポート高松や香川インテリジェントパークなどの開発に取り組んだ。
一方、土庄町豊島に産業廃棄物が不法投棄される公害問題が在任中に起き、1997年に調停の中で県の監督責任を認め、島外への撤去で住民側と中間合意を締結した。最終合意には至らず、次知事の真鍋武紀に問題が引き継がれている。1998年に知事を引退した後は、香川県立文書館や香川県歴史博物館の名誉館長に就任した。1999年6月下旬に体調を崩して入院し、同年7月29日に呼吸不全のため76歳で死去。死後、香川県名誉県民と正四位勲二等旭日重光章に顕彰された。

真鍋 武紀

真鍋 武紀(まなべ たけき、1940年4月3日 - )は、日本の政治家、第43代香川県知事。
来歴
香川県木田郡下高岡村(現三木町)出身。香川県立高松高等学校、東京大学法学部卒業。農林省に入省、環境庁水質保全局長、農林水産審議官、国際協力事業団副総裁を経て、1998年香川県知事選に当選、3期務める。
2009年12月15日の会見で次期知事選への不出馬を表明し、翌2010年9月4日に任期満了に伴い退任した。

浜田 恵造

浜田 恵造(はまだ けいぞう、1952年1月10日 - )は、日本の政治家、香川県知事。2010年の香川県知事選挙で初当選し、9月5日に就任。元財務官僚。
来歴
香川県観音寺市出身。香川県立観音寺第一高等学校、東京大学法学部卒業。大蔵省に入省し、山形県総務部長、東海財務局長、東京税関長、日本高速道路保有・債務返済機構理事を歴任。
香川県知事を3期つとめ引退した真鍋武紀の任期満了に伴う2010年8月告示の同知事選挙で、県議会の自民党、社民党、民主党、公明党の主要会派と連合香川の支援を受けて初当選。
香川県知事選時の政策として、「県への観光客数を1000万人台に」「高松自動車道の4車線化と国道11号の拡幅」「教育の資質向上と教員の業務のあり方の検討」などを挙げている。

脇 信男

脇 信男(わき のぶお、1919年 ‐ 1997年12月12日)は日本の政治家。1971年から1995年までの6期24年にわたり高松市長を務めた。日本社会党県副委員長、全国革新市長会会長などを歴任。高松市名誉市民。
来歴
高松市出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て中央大学法学部を卒業。戦後は帰郷し、同郷の成田知巳(後の日本社会党委員長)の秘書を16年間務める。
前市長・三宅徳三郎の1期限りでの引退表明を受け行われた1971年の高松市長選挙に、社会党と共産党の推薦を受け立候補。自身としては3回目の挑戦であったが、当時全国各地で革新自治体が誕生していたことや、保守陣営が分裂したことも手伝い初当選。第14代高松市長となる。
市長就任後は全国初の老人医療費助成制度(70歳以上が対象で所得制限なし)をはじめ、福祉を中心とした諸施策を実施。全国革新市長会の会長を1978年11月から1983年8月まで務める。
当初は社共共闘により市長に当選したが、のちに民社党や公明党の推薦も得て革新・中道の市長として活躍。また5選時には市議会・同志会(自民党系)の支持も取り付けており、「オール与党体制」のもとで6期の任期を全うする。
1997年12月12日、腎不全のため高松市内の病院で死去。78歳。
逸話
旧制高松中在籍時、第20回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に二塁手として出場。準々決勝まで勝ち進むも、後に巨人の監督となる川上哲治がいた熊本工に敗れる。
任期満了に伴う1995年の市長選では、脇市長のもとで助役を務めていた増田昌三が「市政継承」を訴え、全国初の自共共闘により当選し話題となる。
著書
『瀬戸の都』(1986年10月、讃文社)

多田羅譲治

多田羅譲治(たたら じょうじ、1949年11月11日 - )は、香川県坂出市出身の政治運動家。NPO法人「明日に架ける橋」代表、福祉生協かがわ専務理事。
立候補歴
1989年 坂出市長選挙  無所属 落選 対立候補は松浦稔明
1998年 香川県知事選挙 無所属 得票数 55,933 落選 対立候補は真鍋武紀
2002年 香川県知事選挙 無所属 得票数 77,527 落選 対立候補は真鍋武紀と、佐佐木アシュファ麻コ
2006年 香川県知事選挙 無所属 得票数 98,493 落選 真鍋武紀に三度敗れる
略歴
1968年 香川県立高松高等学校卒業、東京大学文科I類入学。ノンセクトとして学校封鎖や安田講堂事件の現場に居合わす一方、漕艇部活動にも打ち込み、20歳で学生結婚する。大学側の無試験進級策に反対して、必修単位のレポートを敢えて提出しなかったため、2年留年。
1974年 東京大学法学部卒業。列島改造ブームに沸く世相に疑問を覚え、読書三昧の思索の日々を送る。
1978年 家業の薬局チェーン経営を継ぐため高松市に帰郷。
1981年 実家のある坂出市に転居。
1983年 坂出市で、市民オンブズマン参加型市政を目指す「横丁通信」活動を開始。
1985年 坂出商工会議所常任委員に就任。
1987年 香川テレビ放送網で自主制作番組「横丁ちゃんねる」を開始。
1989年 坂出市長選挙に無所属(「さかいで21世紀をいっしょに創る会」)で立候補したが、落選。その後、香川県生活協同組合(現コープかがわ)で常務理事、専務理事を歴任。
1997年 コープかがわを退任。真鍋光広らと共に「市民・ネットワーク・パーティ(民主党香川)」を結党。
1998年 旧民主党の改変に伴う混乱で中央政界との関係が疎遠になったため、民主党香川を離れ無党派の勝手連組織「チヂダス」(知事を出す、の意)を結成。これを運動母体に、脱談合、反天下りと県政の透明化を掲げて香川県知事選挙に立候補したが、オール与党推薦の元キャリア官僚で、高校〜大学の先輩に当る真鍋武紀との、無所属・新人同士の闘いに大敗する。
1999年 「チヂダス」の活動を引き継ぎ、地域振興ミニコミ誌「さぁかす」を創刊。
2002年 環境問題とプール金の存在が焦点化した香川県知事選挙に、無所属(「あすの香川を創ろう会」)で再立候補。当初は資金カンパと選挙ボランティア主体の勝手連運動に拘泥し、既製政党からの協力の申し出を固辞していたが、苦戦するに従い翻意して、独自候補者擁立を断念した自由党と、共産党県委、更に社民党県連の一部より実質支援を受け入れたものの、低投票率に第三の候補との票割れが重なり、落選(2度目)。応援に平野貞夫(自由党副幹事長=当時)、宮崎学、戸田久和らが駆け付けた。
2003年 「さぁかす」をNPO法人化した「明日に架ける橋」を設立。
2004年 「福祉生協かがわ」を設立。
2005年 身障者向け授産所を設立。
2006年 香川県知事選挙に無所属(「あすの香川を創ろう会」)で再々立候補。共産党県委は最初から支持し、本部から「原則相乗り禁止」の方針を下された民主党県連と連合香川、加えて社民党県連も候補者を立てられず自主投票に陥ったため、それらの一部が支援に回ったが、投票率の更なる低下も響き、真鍋武紀との一騎討ちにダブルスコアで完敗した(3度目)。但し、回を追う毎に得票数・得票率は上昇していた。
2010年 この年の香川県知事選挙には出馬しなかった。なお、共産党は公認候補を立てた。

大塚功

北海道財務局長

日下千章

衆議院法制局第三部長

鶴岡俊彦

農林水産事務次官

根津 利三郎

根津 利三郎(ねづ りさぶろう、1948年1月4日 - )は、香川県出身の元通産官僚。 人物
1970年代から引き続いた、知識集約化・省資源化に労働者福祉基準と環境基準を加えた「産業構造ビジョン」1980年 の執筆に関わった。
またIT、科学技術の視点から産業政策の成否を著書にて論じている。日本の場合、強力な電子機器産業があるにも拘らず、それがIT革命に結実していかなかった。例えば、ISDNや光ファイバー網によるネットワーク計画が陳腐化・頓挫したのは、それらを生み出したNTTの過剰設備・過剰研究開発による「技術先行」に原因があるとし、技術開発が先行することでユーザーの利便を満足するような効率的経営ができないNTTのガバナンスの仕組みの問題点を取り上げている。
略歴
1966年 都立日比谷高校卒業
1970年 東京大学経済学部卒業後、通商産業省入省
1975年 ハーバード大学経営大学院修了
1988年 産業政策局国際企業課長
1990年 基礎産業局鉄鋼業務課長
1993年 通商政策局審議官(通商交渉担当)
1995年 OECD科学技術産業局長
2001年 富士通総研 常務理事
2001年 経済産業研究所理事(現職)、富士通総研経済研究所常務理事
2004年 富士通総研専務取締役
著作
『雇用改革』島田晴雄 + 根津利三郎(東洋経済新報社、2007年)
『IT戦国時代』(中央公論社、2002年)
『日本のモノづくり52の論点』共著(日本プラントメンテナンス協会編、2002年)

渡辺泉郎

神奈川県警元本部長

宮脇 梅吉

宮脇 梅吉(みやわき うめきち、明治16年(1883年) - 昭和16年(1941年))は、日本の内務官僚。
経歴
香川県出身。行政官として官選の岐阜県知事(第24代)、埼玉県知事(第23代、第28代)、千葉県知事(第20代)、和歌山県知事(第22代)等を歴任した。
その他
さいたま市誕生までの合併論議の歴史は古く、1927年に当時の官選知事の宮脇が提唱した“一大都市圏構想”に始まる。
家族 親族
兄には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた立憲政友会の重鎮三土忠造(漢学者だった三土家の養子となった)、陸軍大佐から政友会の代議士となった宮脇長吉がいる。紀行作家の宮脇俊三(長吉の三男)は甥。

阪本 和道

阪本 和道(さかもと かずみち)は日本の官僚。政府広報室長等を経て内閣府賞勲局長。
人物
香川県出身。1977年一橋大学法学部を卒業し、総理府入省。
2004年総務省大臣官房審議官就任。2005年戦後60年の節目を受け独立行政法人平和祈念事業特別基金の事業につき見直しを含めた検討をしていることを明らかにした。その後同基金は、2010年までに廃止されることが決定された。
内閣府政府広報室長として政府広報を担当したのち、2009年から内閣府賞勲局長。2010年の秋の叙勲では訴訟を抱えており事務当局内で慎重論もあった元公明党の矢野絢也の旭日大綬章受章が首相官邸の指示によりなされた。
略歴
香川県出身
1977年 一橋大学法学部卒業、総理府入省
1991年 国務大臣(総務庁)秘書官事務取扱
1994年 内閣府大臣官房参事官
1996年 内閣府賞勲局審査官
2000年 内閣府大臣官房参事官
2001年 内閣府賞勲局総務課長
2003年 総務省人事・恩給局総務課長
2004年 総務省大臣官房審議官(大臣官房調整部門担当)
2005年 総務省大臣官房政策評価審議官、電気通信事業紛争処理委員会事務局長
2006年 総務省人事・恩給局次長
2008年 内閣府大臣官房政府広報室長、内閣官房内閣広報室内閣審議官
2009年 内閣府賞勲局長

秋山 賢三

秋山 賢三(あきやま けんぞう、1940年 - )は日本の元裁判官、弁護士。東京大学法学部卒。冤罪問題の研究者として知られる。
経歴
1940年 香川県に生まれる。
1959年 東京大学入学。
1964年 司法試験に合格。
1965年 司法研修所にて司法修習を受ける。この頃、青年法律家協会に入会。
1967年 司法修習を修了し裁判官任官。横浜地方裁判所に配属。
1978年 徳島地方裁判所へ異動。
1980年 徳島ラジオ商殺人事件における再審開始の決定に関与。
1991年 裁判官を退官、弁護士登録。
1994年 袴田事件の弁護団に加わる。
2009年4月14日、防衛医科大教授痴漢事件の弁護団一員として最高裁で逆転無罪判決を得る。
物証が無いにも拘らず、一審・東京地裁、二審・東京高裁では有期懲役判決、最高裁でも田原睦夫裁判長と堀籠幸男裁判官の2つの反対意見があったが、最終的に5人中3人の多数意見で痴漢冤罪の判決を得た。
人物
本人が「下級審で死刑の判決を下された被告人が最高裁判所の審理で無罪となった松川事件に感銘を受け、裁判官に憧れるようになった」と述べているとおり、誤判・冤罪の防止を信念として抱いており、弁護士を始めてからは刑事の分野で多くの否認事件の弁護に携わっている。また、裁判官であった時代から、「疑わしきは被告人の利益に」の原則を忠実に守るように努めてきたと自負している。実際に、徳島ラジオ商殺人事件に関して被告人の遺族からの再審の請求を認め、雪冤の一端を担った。
特に痴漢冤罪の問題に詳しく、裁判官は痴漢の事件で被害者の証言を盲信すべきではないと戒めている。そして、「数万円の罰金刑が相場の軽犯罪で、あえて被告人が長期間の勾留を覚悟して無罪を主張するということは、それだけで冤罪を疑わねばならない事由になる。それにもかかわらず、日本の裁判官は、このような人々を、罪を犯しておきながら反省の色がない悪質な加害者と決め付け、実刑判決を下すことさえある」という趣旨のことを述べている。
なお、独特な主張として「痴漢冤罪は、濡れ衣を着せられた男性の妻にも過度の精神的な負担を与えるので、女性保護の観点からも早急な解消の必要性が裏付けられる」と論じている事があげられる。

安西 愈

安西 愈(あんざい まさる、1938年 - )は、日本の弁護士・元官僚。東京地方最低賃金審議会会長。元・中央大学教授。香川県出身。特に労働法・社会保障法が専門。中央大学通信教育課程出身の生え抜き法曹の一人
略歴
香川県立高松商業高等学校卒業
1958年 香川労働基準局に入局
1962年 中央大学法学部通信教育課程卒業
1964年 労働省労働基準局監督課へ転任
1969年 労働省退官、最高裁判所司法研修所に入る。
1971年 弁護士登録
1985年 第一東京弁護士会副会長
1998年 日本弁護士連合会常務理事
1999年 日本弁護士連合会研修委員長
2004年 中央大学法科大学院客員教授( - 2008年)
この他、最高裁判所司法研修所教官や厚生労働省科学顧問なども務めた。
主要著書
『新しい労使関係のための労働時間・休日・休暇の法律実務』(中央経済社、1977年初版・2006年全訂6版)
『人事の法律常識』(日本経済新聞社(日経文庫)、1981年初版・2010年8版)
『改正労災保険と民事賠償調整の実務』(労働法令実務センター、1982年)
『労働者派遣法の法律実務』(上巻・下巻、労働調査会、1986年初版・2008年新版)
『管理職のための人事・労務の法律』(日本経済新聞社(日経文庫)、1996年初版・2008年4版)
『労働条件の変更(基礎編)』(全国労働基準関係団体連合会、2003年)
(菅野和夫)(野川忍)と共編『実践・変化する雇用社会と法』(有斐閣、2006年)
(第一東京弁護士会労働法制委員会編)『管理職のための労働契約法・労働基準法の実務』(清文社、2009年)

近藤 新八

近藤 新八(こんどう しんぱち、1893年10月15日 - 1947年10月31日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。香川県出身。陸士28期、陸大41期。
経歴
歩兵第224連隊長、第37師団参謀長として中国大陸に駐屯し、続いて台湾軍参謀長を努めた。その後独立混成第19旅団長から新設された第130師団長に補され、広東にて連合軍の中国南部上陸に備えた。戦後戦犯に指名され、昭和22年10月広東で死刑(銃殺)に処された。
年譜
1916年(大正5年)5月26日 陸軍士官学校卒業
1928年(昭和4年)11月29日 陸軍大学校卒業
1938年(昭和13年)7月15日 陸軍歩兵大佐・奉天憲兵隊長
1939年(昭和14年)3月31日 新京憲兵隊長
1940年(昭和15年)12月2日 歩兵第224連隊長
1942年(昭和17年)3月11日 第37師団参謀長
1943年(昭和18年)10月29日 台湾軍参謀長
1944年(昭和19年)7月8日 独立混成第19旅団長
1945年(昭和20年)4月15日 陸軍中将・第130師団長
1947年(昭和22年)10月31日 死刑

原 為一

原 為一(はら ためいち、1900年10月16日 - 1980年10月10日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。
経歴
香川県出身。高松中学校を経て、1921年(大正10年)7月、海軍兵学校(49期)を卒業。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「秋風」「吹雪」「韓崎」の各水雷長、水雷学校教官などを経て、1933年(昭和8年)11月、海軍少佐に進級。「夕凪」「長月」「綾波」艦長などを歴任し、太平洋戦争を「天津風」艦長として迎えた。
第19駆逐隊司令、第27駆逐隊司令を経て、1943年(昭和18年)5月、海軍大佐となった。水雷学校教官、兼川棚警備隊司令を歴任し、1944年(昭和19年)12月、「矢矧」艦長に就任。1945年(昭和20年)4月6日、天一号作戦に参加し「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄へ出撃するも、4月7日、米軍の航空攻撃により大火災をおこし乗艦は戦没したが、同艦座乗の第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将と共に無事生還し、その後は川棚突撃隊司令を経て、第31突撃隊司令として終戦を迎え、同年11月、予備役に編入された。

穴吹 智

穴吹 智(あなぶき さとし、1921年(大正10年)12月5日 - 2005年(平成17年)6月)は、大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛隊の自衛官。戦闘機操縦者(空中勤務者)、ヘリコプター操縦者。最終階級は帝国陸軍では陸軍曹長、陸自では2等陸佐。香川県出身。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、主に一式戦闘機「隼」を操り戦った帝国陸軍有数のエース・パイロット。通り名・異名は「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」など。このうち「白色電光戦闘穴吹」は本人が好んで用いていた自称であり、原隊である飛行第50戦隊(軍隊符号・50FR)の部隊マーク「電光」、第3中隊の中隊色「白色」、飛行分科「戦闘」に因む。
「飛行第50戦隊三羽烏(「運の穴吹」:第3中隊附穴吹智軍曹、「腕の佐々木」:第1中隊附佐々木勇軍曹、「度胸の下川」:第2中隊附下川幸雄軍曹)」の一人。
経歴
1921年(大正10年)12月5日、香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)大字山田上甲千四百七十三番地に、父・穴吹保太郎と母・ヤナの12番目の子、八男として生まれる。
1938年(昭和13年)、穴吹は少年飛行兵を目指し東京陸軍航空学校へ入校。1939年(昭和14年)4月には陸軍少年飛行兵第6期生として熊谷陸軍飛行学校に進み、更に1940年(昭和15年)10月に太刀洗陸軍飛行学校へ入校し1941年(昭和16年)3月に同校を卒業し、陸軍航空部隊の戦闘機操縦者として飛行第50戦隊第3中隊に配属され、同年10月に陸軍伍長に任官。太平洋戦争開戦時には九七式戦闘機を操り南方作戦におけるフィリピン攻略戦に従軍、同年12月22日にはリンガエン上空でアメリカ陸軍航空軍のP-40 トマホーク戦闘機を撃墜し初戦果とする。
1942年(昭和17年)4月、50FRは日本に帰国し一式戦「隼」に機種改編。穴吹は愛機に自身の姓から一文字取り「吹雪」号と名づける(50FRでは戦隊長以下、操縦者は各々の愛機に「隼」とはまた別の独自の愛称をつける伝統がありまた一種のノーズアートとして愛機に愛称を書いていた。なお部隊マークに代表されるように、帝国陸軍ではそのようなユーモアを理解し公式的に認める柔軟な空気があった)。50FRはビルマ戦線に従軍し主にイギリス空軍と交戦、以後、ビルマ・東インド・西南中国を転戦し戦果を上げる。同年12月には陸軍軍曹に任官。
1943年(昭和18年)5月29日、チッタゴン上空でハリケーン戦闘機とスピットファイア戦闘機各1機を撃墜。苦楽を共にした愛機「吹雪」号は飛行時間が240時間と寿命を迎えたため航空廠に送られ、代わって受領した「隼」に穴吹は新しく「君風」号と名づける。
1943年10月8日には「君風」号をもってビルマのバイセン上空でP-38 ライトニング戦闘機を2機撃墜、さらにB-24 リベレーター爆撃機1機に体当たりしこれを撃墜。10日に第3航空軍司令官より個人感状を授与される。
1944年(昭和19年)2月、明野陸軍飛行学校附助教の辞令を受け原隊であった50FRを離れ日本に帰国し、ビルマ留学生等の操縦教育を担当する。また、ルソン島の戦い中に同地へ四式戦闘機「疾風」を空輸する危険任務につき、フェリー中に台湾の高雄上空において「疾風」にてアメリカ海軍のF6F ヘルキャット艦上戦闘機4機の撃墜を報告。同年12月、陸軍曹長に任官。第二次世界大戦敗戦までは明野教導飛行師団(旧・明野陸軍飛行学校)教導飛行隊にて五式戦闘機に搭乗し本土防空戦に従軍、B-29 スーパーフォートレス爆撃機1機の撃墜を報告する。
戦争全般を通じての総撃墜報告数は51機(ないし53機)。研究家による戦後の調査では30機と推測されている。
戦後の1950年(昭和25年)には警察予備隊に入隊。保安隊を経て、陸上自衛隊東北方面ヘリコプター飛行隊長などを歴任し、1971年(昭和46年)に2等陸佐で退官した。その後、日本航空に入社し、1984年(昭和59年)に退社。
2005年(平成17年)6月死去。享年83歳。


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