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実業家

石井絹治郎

石井 絹治郎(いしい きぬじろう、明治21年(1888年)2月14日 - 昭和18年(1943年)5月9日)は、香川県出身の化学者・薬剤師・実業家。
大正製薬の創業者・初代社長で、薬剤師の地位向上のため尽力した。また後に三代目社長となる上原正吉の素質を見抜き育て上げた。55年と短い生涯にも関わらず多数の事業を成し遂げた実業家でもある。
戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(総裁・久原房之助)に与した。政党解消後は翼賛議員同盟・翼賛政治会・大日本政治会に所属した。
生涯
生い立ち
1888年に香川県三豊郡比地二村(現三豊市高瀬町)で農業を営む父石井兵吉、母石井ハルの三男として生まれる。父である兵吉は、石井茂兵衛の養子として石井家に入ったが、兵吉を養子とした後、茂兵衛に殷太郎が生まれ分家したため、兵吉一家の暮らし向きは楽ではなかった。1895年に比地小学校に入学した。子供時代の夢は「大臣か代議士に成ること」だった。
1901年(13歳の時)に上京し、宮内省侍医の岡家に書生として住み込みながら、1904年、明治薬科大学の前身である神田薬学校夜間学部(1906年明治薬学校に改称)に入学し、薬学を学ぶ。神田薬学校を選んだ理由は、住み込み先の岡邸に近く、夜間授業を実施していたからである。
1906年に明治薬学校を首席で卒業し、当時合格率が極端に低かった薬剤師国家試験に最年少の18歳で一発合格した。しかし、当時の資格取得年齢は満20歳だったため、2年間保留となり、その間、宮内省侍医寮薬局実習を経て、東京高等師範学校(現:筑波大学)理学部化学科教授の小川正孝の助手となる。
1908年に保留だった薬剤師免許証の取得を受け、牛込佐内町に「泰山堂薬局」を開設し、故郷から一家を東京へ迎える。
1910年に従兄妹同士であった豊島ムメと結婚。
大正製薬設立
1912年に「大正製薬所」を設立し「ヘモグロビンエキス」「ヘモグロビン菓子」の製造販売を始め、事業が軌道に乗る。
当時、日本薬剤師会を中心に薬界をあげて取り組んでいた売薬法改正をめぐる運動に参加し、島田三郎や三木武吉ら政界有力者への積極的なロビー活動を行った。結果的に、『売薬調整権を薬剤師に限る』という売薬法改正案は成立し、薬剤師の地位が飛躍的に向上した。因みに、三木とは同県人のよしみから、その後も急速に接近した。
事業拡大に伴う従業員増強の必要性から、それまでの縁故者に限っていた採用方針を転換し、1916年に当時19歳だった上原正吉を住み込みで採用した。
関東大震災で日本薬剤師会が焼失した際に、大正製薬所の応接間を仮事務所に提供する一方、出入りの大工を焼跡に派遣し、バラック建の事務所を急造させたほか、1918年に開設していた大阪支店に命じて、大阪から大量の医薬品や衛生材料などを至急輸送させ、罹災した会員に無料配布するなど、迅速果敢な処置を行った。結果的に、東京の同業者の多くが罹災したが、運よく罹災を逃れた大正製薬所に注文が殺到し、損失の数倍に匹敵する利益を上げた。
1928年に大正製薬所を株式会社大正製薬へ改組。翌年、営業不振により撤退していた大阪に再進出し、当時まだ32歳だった上原正吉を大阪支店長に大抜擢する。1932年には大連に支店を開設した。
晩年
仕事一徹で、昼夜を問わず駆けずり回っていた石井は、多数の委員会の委員や委員長を歴任すると共に、大正製薬以外の事業を数多く手がけた。1940年には皇紀2600年を記念して、国際政治学者で東京帝国大学法学部教授の神川彦松らと皇道文化研究所を設立した。
1943年4月に東京商工会議所満鮮北支経済使節団長として渡支し、帰国後チフスを発病、同年5月9日永眠。享年55歳。5月13日に警報下、音羽の神齢山悉地院護国寺において告別式が営まれ、同墓地に埋葬された。葬儀委員長はのちに外務大臣となる藤山愛一郎が務めた。戒名:鳳心院剛毅慈恵居士。
人物
31歳の時に重いチフスに罹患したが、奇跡的に回復し、以後はその人生を走り抜いた。『以前に罹ったことがあるので、チフスは大丈夫』と、人々の忠告を聞かないで予防注射を打たずに渡支し、大陸の強烈なチフスに罹患し、死去した。
石井の懐刀であった上原正吉は後に、『全く、啄木の歌の通りの、白くて大きな手を持った非凡な人間でありました』と表現し、『部下に対する寛容と愛情 / 積極、進取の気象 / 度胸と勇断を学んだ』と述べている。3代目社長として上原正吉が社業を引き継いだが、絹治郎が多方面に築き上げた人脈が基礎となり、発展した。 明治薬科大学初代校長恩田経介は『一見強面だが、恐ろしく気前がよく、熱血漢で義理固い反面、惚れっぽい』と石井のことを評している。
エーザイの創業者内藤豊次とは所謂ライバル関係であり、商売では競い合っていたが、お互いに尊敬し合っており、内藤がスイスに行く際、当時スイスに留学していた長男:輝司宛ての伝言を頼んだほどである。 葬儀委員長を務めた藤山愛一郎は晩年、『石井さんが戦後まで生きておられたら、戦後混乱期の日本の先導役として戦後経済復興のために大きな貢献をされたであろう。国の為にも御家族のためにも、僅55歳で逝かれたことが惜しまれてならない。』と語っている。
皇道文化研究所を共に設立した神川彦松は、石井の亡骸に対面し、『戰局下当面の課題としては、東亞共榮圏を建設するための基礎工事たる日本的世界觀の樹立が本研究所の目的であり、課題でありますが、熱意の賜物である、貴方様は日本精神を根底とし、日本的天才を發揮して日本的にして、然も世界的に妥當する世界觀を樹立しようと心がけたのでありました。このことたる実に深遠にして至難な學的課題であります。貴方様を失ったことは、我が研究所はもとより、皇國にとり最大の不幸であり、打撃であります。』とその若い死を嘆いた。
家族・親族
父:石井兵吉
母:ハル
妻:ムメ
長男:輝司(元大正製薬社長)
次男:良二(没1歳)
長女:秀子(没1歳)
孫:啓太郎(明治薬科大学副学長)
長男の輝司も明治薬科大学を卒業しており、孫の啓太郎も明治薬科大学薬学部製薬学科教授であり、石井家と同大学とは3代に渡って関わり合いがある。
年譜
1888年- 香川県三豊郡比地二村(現三豊市高瀬町)に生まれる。
1899年- 比地小学校卒業。
1901年- 薬業見習のため上京。
1904年- 神田薬学校(現:明治薬科大学)入学。
1906年- 明治薬学校(現:明治薬科大学)卒業。薬剤師国家試験合格。
1908年- 泰山堂薬局開設。日本薬剤師会入会。
1910年- 従兄妹であるムメと結婚。 1912年- 大正製薬所設立。
1914年- 念願の売薬法改正。
1915年- 長男石井輝司誕生。
1916年- 日本薬剤師会東京府選出代議員に当選。上原正吉を採用。
1919年- チフスに罹患するも、一命を取り留める。
1923年- 日本薬剤師会理事に選出。
1924年- 日本薬剤師会薬事業務調査委員に就任。
1925年- 明薬大成会初代会長に就任。
1926年- 日本薬剤師会東京府薬会長に当選。(没するまで日本薬剤師会理事と重任)
1928年- 大正製薬所を株式会社大正製薬へ改組。
1929年- 日本薬剤師会副会長に当選。大正製薬大阪支店開設。
1932年- 大日本化学工業会長に就任。大正製薬大連支店開設。
1933年- 日本微生物研究所を設立。
1935年- 東京府国防科学協会会長、大日本国防科学協会副会長に就任。日本薬剤師会副会長に再任。
1937年- 東京商工会議所議員に当選。東京府防空委員に就任。
1938年- 日本鉱業開発と日生鉱業を設立し、両社の取締役社長に就任。比地小学校に教育資金を寄付。
1939年- 商工省価格形成専門委員に就任。興亜炭素(現:ツルミコール)を設立し、取締役社長に就任。
1940年- 全国薬業団体連合会会長・東京薬業同業組合長・戦時特別調停委員に就任。皇紀2600年を記念し神川彦松らと皇道文化研究所を設立。
1941年- 東京商工会議所議員に再選。東京府医薬品需給調査会副会長・医薬品配給統制審議会中央委員長に就任。
1942年- 東京市会議員に当選。
1943年- 石井精機社長に就任。4月に東京商工会議所満鮮北支経済使節団長として渡支し、帰国後チフスを発病、同年5月9日永眠(満55歳)。


片岡勝太郎

片岡電気{現アルプス電気}創業者


芦原 義重

芦原 義重(あしはら よししげ 1901年3月4日 - 2003年7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長。
経歴
香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て京都帝国大学工学部電気工学科卒業後、1925年に阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現阪急阪神ホールディングス)入社。1942年に配電統制により関西配電へ引継採用し、工務部電務課長に就任。その後、常務取締役・副社長を歴任。
関電中興の祖
1951年に電力再編成により、関西電力常務取締役に就任。1959年に太田垣士郎の後任社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共に逸早く原子力発電を導入。折から公害や環境破壊が問題となり地域住民の電源立地が困難になると、中央の財政界を巻き込んで政府の電源立地地促進政策強化を支援、原子力開発において国民的コンセンサス確立に努めた。
更に発電から配電に至る広範な革新技術の開発導入を進めるとともに設備運用・経営管理面におけるコンピュータリゼーションの推進による経営全般の近代化・効率化に努めた。
関電経営の傍ら、財政制度審議委員・科学技術審議議員などの公職を務め、関西経済同友会の代表理事や関西経済連合会会長・日本電気協会会長・公共広告機構(現:ACジャパン)会長、更には阪急電鉄・日本生命・大阪ガスなどの社外取締役や毎日新聞社顧問を務めるなど殊に関西の財界に影響力を持ち続けた。こうしたことから関電の中興の祖と呼ばれている。
関電二・二六事件
1970年に芦原は会長に退き更に相談役名誉会長に退いたが、その後も女婿・腹心の内藤千百里(のち副社長)を用いて社内に強い影響力を持った。ところが1986年に朝日ジャーナル誌で連載されていた「企業探検」で関電が取り上げられ、その一種恐怖支配とも取れるワンマン振りが公となった(なお、この記事を執筆したのは当時龍谷大学教授だった奧村宏)。これで社内外に批判が噴出、翌1987年2月の関電取締会で芦原と内藤の解任動議が出され小林庄一郎会長のイニチアシブの下、両者の解任が可決された。


池田 守男

池田 守男(いけだ もりお、1936年(昭和11年)12月25日 - )は、株式会社資生堂相談役、資生堂美容技術専門学校理事長、東洋英和女学院理事長・院長、株式会社小松製作所社外取締役、教育再生会議座長代理、日本基督教団銀座教会員。香川県高松市出身。
経歴
1955年3月 - 香川県立高松高等学校卒業
1961年3月 - 東京神学大学神学部卒業
1961年4月 - 株式会社資生堂入社
1990年 - 同 取締役秘書室長
1995年 - 同 常務取締役
2001年6月 - 同 代表取締役社長
2003年7月-東京商工会議所副会頭
2005年6月 - 同 取締役会長
2005年6月 - 東洋英和女学院理事長
2006年4月 - 日本宣伝大賞受賞
2006年10月 - 教育再生会議座長代理
2007年2月 - 公益認定等委員会委員
2007年4月 - 東洋英和女学院理事長・院長
人物
好きな言葉は、聖書の「与ふるは受くるより幸ひなり」。


中村光一

中村光一(なかむら こういち、1964年8月15日 - )は、ゲームクリエイター、株式会社チュンソフト代表取締役社長。
人物
丸亀高校時代は数学同好会に所属した。数学同好会では、『ギャラクシーウォーズ』をBASIC言語でタンディ社TRS-80に移植するなどしていた。『I/O』誌で、芸夢狂人がNECのPC-8001に移植した『ギャラクシアン』等を遊ぶために新聞配達で貯めた金でPC-8001を購入し、以後はそのPC-8001で以後、プログラム開発と投稿を行うようになる。『I/O』誌に機械語入力ツールを投稿し、1981年2月号に掲載されたのが投稿デビューで、これにより原稿料2万円を得る。この経験から、今度は高校1年の春休みにアーケードゲーム『スペースパニック』の移植作『ALIEN PartII』が1981年5月号に掲載され、同作はカセットテープでも販売されたことで20万円の印税収入となった。続けて1982年1月号には『スクランブル』(権利関係から後に『アタッカー』に改題)も同様にカセットで販売されて印税100万円。さらに『リバーパトロール』の移植作『リバーレスキュー』は『I/O』別冊『マイコンゲームの本4』に掲載され、高校時代にこれら『I/O』誌への投稿で、計200万円以上を稼いだ。
『I/O』誌での活躍によって、当時のマイコン少年の間では知られた存在であった。
これらで得た投稿料、印税でPC-8801を購入した。そしてプロのゲームクリエイターになることを決意し、1982年の高校3年の時にエニックス主催の第1回ホビープログラムコンテストに向けて、初のオリジナルとなるゲーム『ドアドア』を製作して応募したところ、準優勝にあたる優秀プログラム賞に入選し、50万円の賞金を獲得した。
1983年、上京して電気通信大学に入学。入選作『ドアドア』をパソコンの各機種に移植し、『ドアドア』による印税収入で大学生にして1,000万円を超える年収を得ていた。その後、エニックスでの第2作となるパソコンゲーム『ニュートロン』をリリースし、大学2年の春休み中の1984年4月9日に友人らが株主となって社員5人のチュンソフトを設立した。調布市の賃貸マンションの1室で営業活動を開始した。チュンソフトの第1作は1985年のPC-6001版『ドアドアmkII』。続けて、エニックスのファミコン参入に伴って、ファミコン版『ドアドア』で、チュンソフトも家庭用ゲーム機のゲーム開発に参入した。パソコン版『ドアドア』が8万本だったのに対して、ファミコン版『ドアドア』は20万本のセールスを記録し、以後は家庭用ゲーム機に注力する。続けて、同じくエニックスのプログラムコンテストの入賞者であった堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』のファミコン版の移植作業を行い、この時期に中村と堀井が『ウィザードリィ』『ウルティマ』といったコンピュータRPGに熱中したことから、ファミコンの本格的なRPG『ドラゴンクエスト』の開発を担当することになった。
ドラゴンクエストシリーズは『ドラゴンクエストV』までの開発に携わるが、その後エニックス作品から離れ『弟切草』で自社ブランドデビュー。その後、『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『かまいたちの夜』『風来のシレン』『街 〜運命の交差点〜』と立て続けに新ジャンルを開拓、いずれもヒットを飛ばし、優良メーカーの代名詞として活躍を見せる。自身は会社経営のため、プログラマーからは退いている。
一時自社製品のエピゴーネンに悩まされたが、『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』のヒットで復活の兆しを見せる。また近年ではセガと家庭用ゲーム事業で業務提携を結んだ。2008年にはWiiソフト『428 〜封鎖された渋谷で〜』のプロデューサーを務める。
テレビ東京の『ワールドビジネスサテライト』において2006年、1億2000万円のオーストラリア製クルーザーを購入したことの取材を受ける。
作品
ドアドア
ドアドアmkII
ニュートロン
ドラゴンクエスト:ディレクション、プログラム
ドラゴンクエストII 悪霊の神々:ディレクション、メインプログラム
ドラゴンクエストIII そして伝説へ…:ディレクション
ドラゴンクエストIV 導かれし者たち:ディレクション
ドラゴンクエストV 天空の花嫁:監修
ファミコンジャンプII 最強の7人:ディレクション
テトリス2+ボンブリス:ディレクション
弟切草:ディレクション・プロデュース
トルネコの大冒険 不思議のダンジョン:プロデュース
トルネコの大冒険2 不思議のダンジョン:製作総指揮
トルネコの大冒険3 不思議のダンジョン:製作総指揮
かまいたちの夜:プロデュース
かまいたちの夜2 監獄島のわらべ唄:製作総指揮
かまいたちの夜×3 三日月島事件の真相:プロデュース
風来のシレン:プロデュース
風来のシレンGB:プロデュース
風来のシレン2:製作総指揮
風来のシレンGB2:製作総指揮
風来のシレン外伝:監修
シレン・モンスターズ ネットサル:プロデュース
チョコボの不思議なダンジョン:監修
チョコボの不思議なダンジョン2:監修
街 〜運命の交差点〜:プロデュース
3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!:プロデュース
ホームランド:プロデュース
忌火起草:エグゼクティブプロデュース
428 〜封鎖された渋谷で〜:プロデュース
TRICK×LOGIC:エグゼクティブプロデュース


馬渕健一

馬渕健一(まぶち けんいち、1922年11月13日 - 2005年7月16日)は、マブチモーター創業者である。小型モーターのシェアが世界一となるような企業に育てあげた。
年表
1922年11月13日:香川県高松市のブリキ工場を営んでいた家に生まれる。
1946年:関西理科研究所を創業する。小型マグネットモーターを開発する。
1971年:マブチモーターへ社名変更。
1985年:社長を弟の馬渕隆一に譲り、会長へ。
1999年:会長を引退する。名誉会長へ。
2005年7月16日:心不全のため松戸市松戸の新東京病院で死去。享年82。


大社 義規

大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、実業家。日本ハム元社長。香川県大川郡津田町津田(現・さぬき市)出身。晩年は大変な巨漢であった。
来歴・人物
1934年、家の没落で旧制高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)を中退(のちの阪神球団社長小津正次郎は一学年先輩にあたる)。叔父経営の養豚組合に就職したのち1942年に日本ハム株式会社の前身母体となる「徳島食肉加工工場」を徳島市で設立。その後戦災による工場焼失、株式会社への組織変更を経たのち大阪市浪速区に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に現社名に変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。
1973年には、旧制高松中(現・高松高校)の先輩・三原脩の勧めにより日拓ホームフライヤーズを買収し、公募で決定した新ニックネームをつけ「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参戦。オーナーに就任し、チームの躍進とともに企業のイメージアップにつなげた。大社は三原を球団社長に、三原の娘婿である中西太を監督に招聘している。1981年には大沢啓二監督指揮で19年ぶり(1962年、東映時代以来)、日本ハムとしては初めてのパシフィック・リーグ優勝を果たす。
しかし、2002年の狂牛病対策による農林水産省の制度を悪用した牛肉偽装事件の影響で経営から身を引き、第一線からも退いた。2005年4月27日午後5時45分、兵庫県の病院にて心不全のため死去。90歳没。その後は甥で養子の大社啓二が日本ハム取締役、北海道日本ハムファイターズオーナーを引き継ぎ現在に至っている。
野球好きに関するエピソード
広島東洋カープの松田耕平前オーナー共々、球界きっての野球好きのオーナーとして有名。
足しげく球場に観戦に通い、選手に声を掛けている姿はファンによく目撃され、オーナー在職中は新入団選手発表記者会見や、ドラフト会議にもほぼ毎年顔を出していた。
選手の仲人を数多く務めた。
白井一幸(元日本ハムファイターズヘッドコーチ)によると、大社義規は「やろうと思えば何でもできる」、「できると思えば必ずできる」という言葉を選手たちに言い聞かせてくれていたという。
まだ携帯電話やファックス、インターネットが無い時代、毎試合、球場に本社職員を派遣させ、試合経過を電話で随時報告してもらい、確認していた。
酒好きであったが、日本ハムの試合が行われている時は選手に失礼だからという理由でまったく飲まなかったという。
1981年のリーグ優勝の胴上げの時に着ていたユニフォームの背番号100は、オーナーとしては史上初の永久欠番となった(北海道日本ハム、2009年2月1日制定)。
2006年にファイターズが44年振りの日本一を果たした際は、養子の大社啓二が持つ遺影という形ではあったが、選手によって胴上げされた。これは、彼が球団を心の底から愛していたことをはっきりと証明するものとなった。
2009年1月13日、特別表彰で野球殿堂入りを果たした。


小森敏之

丸大食品創業者


田渕道行

ほっかほっか亭創業者


景山甚右衛門

讃岐鉄道設立者


片岡弓八

沈没船八坂丸引上げで深海王と呼ばれた。


矢野良臣

元丸善石油化学社長


近藤 照久

近藤 照久(こんどう てるひさ、1928年3月18日 - 2009年1月3日)は、東洋炭素創業者、元社長、会長。香川県出身。
略歴
1945年3月 香川県立観音寺商業学校(現在の香川県立観音寺中央高等学校)卒業
1946年2月 近藤カーボン工業所入社
1947年7月 近藤カーボン工業株式会社設立
1948年7月 代表取締役社長
2007年8月 代表取締役会長兼CEO
2009年1月3日午前5時35分 心不全のため死去 享年80


木下 尚慈

木下 尚慈(きのした しょうじ、昭和19年(1944年)1月4日 - )は日本の実業家。ユニリーバ・ジャパンの元代表取締役社長。博報堂アドバイザー。ブルゴーニュワイン騎士団会員。葡萄の騎士の会理事。日本紅茶協会名誉顧問。日本国際ボランティアセンター(JVC)会員。日本クラリネット協会会員。長竹カントリークラブ会員。ワグネルソサィェティーOBオーケストラ団員。
経歴
香川県小豆郡内海町(現小豆島町)出身。
1966年3月慶應義塾大学経済学部卒業。1978年6月スタンフォード大学大学院(経営学修士)。
キリンビール、キリンシーグラム、UCC上島珈琲を経て、1995年4月日本リーバ(現ユニリーバ・ジャパン)入社。2000年7月 BBLジャパン(現:ユニリーバ・ジャパン・ビバレッジ)代表取締役社長。2004年4月 ユニリーバ・ジャパン代表取締役社長就任。2006年12月ユニリーバ・ジャパン社長を退任。2007年1月株式会社きのした設立。同社代表取締役に就任。2009年9月、新宿御苑にマエストローラ音楽院を開校、理事長に就任。
系譜
木下家(丸金醤油の100年)
『われら一族―現代の豪族―』93-100頁によると、「木下家は水軍の子孫である。現在木下家に保存されている千石船「太神丸」の記録によれば、木下一族は代々「塩屋忠次郎」を名のっており、文政天保(1818年〜1843年)のころには、北は函館、南は鹿児島まで手広く回船問屋を営みはじめていた。また浜には多くの塩浜を持ち北九州に漁場を持つなど、この一族は小豆島を代表する豪族だった。文禄元年(1592年)の朝鮮征伐に参加した水軍の総勢は9450人といわれているが、小豆島からは船50余艘、水夫650人が参加した。水先案内人の「兵衛(ひょうえ)」は抜群の働きをした功績によって、木下姓を許された。この木下兵衛が塩屋忠次郎一族の祖先だといわれている。」という。


穴吹 夏次

穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年7月29日 - 2000年10月24日)は、株式会社穴吹工務店元社長。前妻黒川ユキエ。後妻は現穴吹カレッジグループ代表の穴吹キヌエ。前妻には穴吹貞夫、花川昭美の子供があり、後妻には穴吹英隆穴吹工務店前社長、穴吹忠嗣穴吹興産社長の子供がある。 略歴
1909年7月29日 - 父穴吹喜作、母穴吹ムメの長男として、香川県高松市にて出生。
1930年1月 - 家業の土木建築業に従事。
1937年3月 - 川添村立川添青年学校の教官に就任。
1940年6月 - 京都府警警察官拝命
1945年10月 - 復員、実父の建設業を継承。
1961年1月 - 穴吹工務店を株式会社に改組。
1964年5月 - 穴吹興産設立 代表取締役社長に就任。
1994年 - 穴吹工務店代表取締役会長に就任。
2000年10月24日午後5時35分 - 高松市内の病院にて死去。
2000年11月21日 - サンメッセ香川にて穴吹工務店社葬、穴吹グループ合同葬を挙行。


石井 健一郎

石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 - 2001年4月29日)は、元大同特殊鋼社長。同社名誉会長。元日経連副会長。愛知県経営者協会元会長。香川県高松市出身。
来歴
1926年(大正15年)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業後、大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社。モータリゼーション時代の到来を予見し、特殊鋼一貫製造拠点の知多工場を建設。また、巧みな手腕で業界再編成を推進。同社の礎を築き、同社“中興の祖”と称されている。2001年(平成13年)4月29日、老衰のため97歳で死去した。
経歴
1926年(大正15年) - 名古屋高等商業学校卒業
1926年(大正15年) - 大同製鋼(現大同特殊鋼)入社
1949年(昭和24年) - 取締役就任
1958年(昭和33年) - 代表取締役社長



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