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文化人

平賀 源内

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年)- 安永8年12月18日(1780年1月24日))は江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)である。諱は国倫(くにとも)、号は鳩渓(きゅうけい)・風来山人・福内鬼外(ふくうちきがい)・貧家銭内(ひんかぜにない)など。通称は源内、元内とも。
父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏の娘。兄弟多数。

経歴

讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。平賀氏は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族だったが、戦国時代平賀玄信の代に甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。
幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。
大阪、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。物産博覧会を度々開催し、宝暦12年(1762年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職する。
宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念する。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日獄死、享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられる。
戒名は智見霊雄。墓所は総泉寺の移転前の台東区の敷地にあり、総泉寺自体が浅草に移転した後もそのままの場所に残されている。

人物と業績

天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼などの焼き物を作成したり、多彩な分野で活躍した。
男色家であった為、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名。
『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや(貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬとき位は畳の上で普通に死んで欲しかった。))とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。
科学者としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
『エレキテル』の修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにも関わらず、修復に成功したという。
「夏バテ防止の為に土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらを以て日本におけるコピーライターのはしりとも評される。
浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で[1]、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。
鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会『東都薬品会』が開催された。
文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。

作品

西洋画
『黒奴を伴う赤服蘭人図』
『西洋婦人図』
著作
『物類品隲』
『根南志具佐』
『風流志道軒伝』
『放屁論』『放屁論後編』
浄瑠璃
『神霊矢口渡』
『源氏大草紙』
『弓勢智勇湊』
『嫩榕葉相生源氏』
『前太平記古跡鑑』
『忠臣伊呂波実記』
『荒御霊新田新徳』
『霊験宮戸川』
『実生源氏金王桜』

資料・研究

資料
『源内実記』
『平賀源内全集』『平賀源内全集補遺』
『風来人集』
研究
『讃岐偉人平賀源内翁』
『平賀源内研究』:森銑三

関連施設

平賀源内記念館、平賀源内先生遺品館 - 香川県さぬき市志度
発明品や著作物、杉田玄白と源内の書簡などが展示されている。また、平賀源内記念館が2009年3月22日にオープンし、平賀源内祭りの会場。場所はJR志度駅から徒歩5分 *平賀源内記念館
平賀源内墓 - 東京都台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地
1943年、国の史跡に指定
敷地内には、従僕であった福助の墓もある。
平賀源内先生の墓 - 香川県さぬき市志度 微雲窟 自性院
同院は平賀家の菩提寺であり、墓は義弟である平賀権太夫の建立とされる。
毎年12月には、法要がとり行われる。
源内賞
平賀源内の偉業をたたえて発明工夫を振興する基金を、エレキテル尾崎財団が1994年に寄贈。この基金を基に、香川県さぬき市(旧志度町)とエレキテル尾崎財団とが、四国内の科学研究者を授賞対象とする源内賞、奨励賞を設定し、毎年3月に表彰。


久米通賢

発明家、天文学、測量学、塩田開発など。東かがわ市出身。


奈良 専二

奈良 専二(なら せんじ、1822年〜1892年5月4日)は、香川県出身の老農(篤農家)・農業指導者。明治農法を確立した「明治の三老農」の一人とし知られている。
1822年、讃岐国三木郡池戸村(いけのべむら、現・香川県木田郡三木町大字池戸)の農家、奈良才蔵の長男として生まれる。
幼少のころから「農をもって国を興す」という大志を抱き、わずか8歳で運搬用のネコ車を発明するなど農機具の考案、さらにはイネの品種改良など農業全般にわたる実地指導者として活躍した。
1883年、60歳を過ぎて決意を新たに上京。以来、東京、千葉、茨城の各地で農業技術の研究を行うとともに、指導者としても活躍した。
1890年、秋田県仙北郡花館村(現・大仙市)に農業指導者として招聘された。花館村に移住し、豪農・佐々木多右衛門家に滞在しながら、「働かなければ生活はできない」という勤労の気風を植えつけ、ウサギの生産・養蚕・馬産を奨励、さらに納豆、豆腐の製法も教え、乾田での馬耕も指導、着々と成果をあげた。また、数々の農書を著した。
耕地整理も奈良の指導で仙北郡内で最初に行われ、今日の農業の礎を築いた。
1892年5月4日、秋田県南秋田郡川尻村(現・秋田市)で肺炎のため死亡した。


石井 安憲

石井 安憲(いしい やすのり、1946年 - )は日本の経済学者。早稲田大学政治経済学術院教授、経済学博士(一橋大学)。
人物
香川県出身。1969年香川大学経済学部卒業、1971年一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了、1974年一橋大学大学院経済学研究科博士課程修得。
横浜市立大学商学部教授、カリフォルニア大学バークレイ校客員研究員、ボン大学客員研究員等を経て、1984年リヨン商科大学大学院招聘教授、1990年上海市高等教育局招聘教授、1993年北京大学中国国家専家局招聘教授、1997年復旦大学日本研究センター客員教授、2000年早稲田大学政治経済学術院教授。2006年早稲田大学評議員。
専門は国際経済学の研究で、1990年には論文「不確実性と競争・独占・貿易」で一橋大学から経済学博士の学位を取得した。また日本経済学会理事や日本国際経済学会常務理事等も歴任。
著書
『不確実性と競争・独占・貿易』東洋経済新報社, 1989.7
『入門・ミクロ経済学』有斐閣, 1995.6
『演習入門・ミクロ経済学』有斐閣, 1996.9
『入門・国際経済学』有斐閣, 1999.12
『現代ミクロ経済学』東洋経済新報社, 2000.6
『グローバリゼーション下の経済・政策分析』有斐閣, 2004.6
『開放経済の経済・政策分析 (早稲田大学現代政治経済研究所研究叢書 ; 20)』早稲田大学出版部,2004.7
『開放ミクロ経済学のフロンティアー (早稲田大学現代政治経済研究所研究叢書 ; 33)』早稲田大学出版部, 2009.3.


植田 和弘

植田 和弘(うえた かずひろ、1952年 - )は、日本の経済学者、京都大学教授。環境経済・政策学会会長。
専門は環境経済学。工学博士(大阪大学)(1983年)、博士(経済学)(京都大学)(1997年)。博士論文はそれぞれ、「金属利用の社会的評価に基づくリサイクル計画に関する基礎的研究 -鉛を中心にして-」、「廃棄物制御の財政理論」。日本における環境経済学の草分け的存在。香川県生まれ。
略歴
1975年:京都大学工学部卒業
1983年:大阪大学大学院工学研究科環境工学専攻博士課程修了
1981年6月:京都大学経済研究所助手
1984年4月:京都大学経済学部助教授
1994年1月:京都大学経済学部教授
1997年:京都大学大学院経済学研究科教授
2002年:京都大学大学院地球環境学堂・地球環境学舎・三才学林教授(兼任)
1995年の『環境経済・政策学会』設立に発起人として尽力し、社会経済システムとしての地球環境問題研究の中心的学会に育てた。現在も同学会の会長を務める。第一線の研究者・教育者であると同時に、「オーガナイザー」として京都大学を日本における「地球環境問題研究」の拠点に育てた中心的人物。
現在、 京都大学公共政策大学院でも教鞭をとっている。
著書
単著
『廃棄物とリサイクルの経済学――大量廃棄社会は変えられるか』(有斐閣, 1992年)
『リサイクル社会への途』(自治体研究社, 1994年)
『環境経済学』(岩波書店, 1996年)
『環境経済学への招待』(丸善, 1998年)
『環境と経済を考える』(岩波書店, 1998年)


唐渡興宣

経済学者(北海道大学教授)。高松市出身。


岸田 秀

岸田 秀(きしだ しゅう 1933年12月25日-)は、心理学者、精神分析学者、思想家、エッセイスト、和光大学名誉教授である。著書は『ものぐさ精神分析』など多数あり、週刊誌等に対談・エッセイなどで登場することも多い。新しい歴史教科書をつくる会の賛同者として、産経新聞にコメントを寄せたことがある。
年譜
香川県善通寺市に生まれ、香川県立丸亀高等学校を経て早稲田大学文学部心理学科を卒業する。同大学大学院修士課程修了後、ストラスブール大学大学院留学、その際、同大学院を「卒業」したと思っていたが、後で博士号を取っていることを確認できなかったという。1972年から2004年まで和光大学教授を務めた。
雑誌『現代思想』によって思想界にデビュー。1978年に出版された『ものぐさ精神分析』はマスコミを中心に話題となり、当時の思想界の若きスターだった柄谷行人も岸田の理論には注目していた。また、岸田の理論を信奉した伊丹十三は、岸田をメインにすえた思想雑誌『モノンクル』を刊行した。
1980年代に到来する「ニュー・アカデミズム」の先駆とでもよべる人物であり、また、学者・研究者としてどの学会にも属していない。
思想
岸田は、ルイス・ボルクの胎児化説やアドルフ・ポルトマンの生理的早産説などを統合したアルノルト・ゲーレンの「欠陥生物」論をうけて「人間は本能の壊れた動物である」とし、自我、家族、国家に及ぶ独自の思想、「唯幻論」を『ものぐさ精神分析』(およびその原点となった雑誌掲載の論文「日本近代を精神分析する−精神分裂病としての日本近代」など)で提唱する。常識として疑われることなく通用している意味、観念を幻想といいきり、徹底的な相対化をおこなう、いわば「価値の紊乱(びんらん)」にこそ、この思想の独創性が見出せる。語り口の痛快さによって多くの読者を得て、80年代前半の思想界の注目を集めた。
『ものぐさ精神分析』を出版した際、「自分が言いたいことは一つしかない、著作はこの一冊でお終いだ」と宣言し、実際『ものぐさ精神分析』における唯幻論の思想はその後も変わらず一貫性を保っている。
ただし、著作は多くの読者を集めたことからその後も多数出版している。その後の著作で、岸田はその「唯幻論」を、自分と両親との間の特殊な関係性を説明するために考え出したと記している。
著作
単著
『ものぐさ精神分析』(青土社、1978年)
『二番煎じ ものぐさ精神分析』(青土社、1979年)
『出がらし ものぐさ精神分析』(青土社、1980年)
以上、のち『ものぐさ精神分析』正続として再編集され中公文庫
『希望の原理』(朝日出版社、1985年)
『不惑の雑考』(文藝春秋、1986年)のち文庫
『嫉妬の時代 飛鳥新社 1987 のち文春文庫
『ふき寄せ雑文集』(文藝春秋、1989年)のち文庫
『フロイドを読む』(青土社、1991年)のち河出文庫
『ものぐさ箸やすめ』(文藝春秋、1993年)のち文庫
『幻想の未来』(青土社 1993年)のち河出文庫、講談社学術文庫
『母親幻想』(新書館 1995年)
『心はなぜ苦しむのか』(毎日新聞社 1996年)のち朝日文庫
『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋、1996年)のち文庫
『官僚病の起源』(新書館、1997年)「歴史を精神分析する」中公文庫
『「日本人の不安」を精神分析する 唯幻論で読み解く現代』(大和書房 1998年)
『性的唯幻論序説』(文春新書、1999年)のち増補して文庫
『幻想に生きる親子たち』(文藝春秋 2000年)のち文庫
『日本がアメリカを赦す日』(毎日新聞社、2001年)のち文春文庫
A Place for Apology: War, Guilt, and US-Japan Relations (trans by Yukiko Tanaka). Hamilton Books, 2004. (ISBN 0761828494)
『古希の雑考』(文藝春秋、2004年)のち文庫
『唯幻論物語』(文春新書、2005年)
『岸田秀最終講義DVD本』(Id 2006年)
『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』(新書館 2007年)
『岸田秀コレクション』(青土社)
「哀しみ」という感情 新書館、2008


佐藤 勝彦

佐藤 勝彦(さとう かつひこ、1945年8月30日 - )は、日本の宇宙物理学者。専門は、宇宙論。インフレーション宇宙論の提唱者として知られる。東京大学名誉教授。
香川県坂出市出身。香川大学教育学部附属坂出中学校、香川県立丸亀高等学校を卒業後京都大学理学部に入学し、物理学科天体核物理学研究室で林忠四郎に師事した。2010年現在、大学共同利用機関法人自然科学研究機構長、明星大学理工学部客員教授。
佐藤と同じく林忠四郎門下の東京工業大学特任教授・中澤清は坂出市出身で同郷にあたる。
略歴
1968年:京都大学理学部物理学科卒業。
1973年:京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程を単位取得退学。日本学術振興会奨励研究員。
1974年:同博士課程修了、理学博士の学位を取得。
1977年:京都大学理学部助手。
1979年:デンマークの北欧理論物理学研究所(NORDITA)の客員教授となる( - 1980年)。
1982年:東京大学理学部物理学科助教授。
1988年:国際天文学連合(IAU)第47委員会(宇宙論)委員長( - 1991年)。
1989年:井上学術賞受賞。
1990年:東京大学理学部教授。仁科記念賞受賞。
1997年:日本物理学会会長(〜1998年)。
1999年:東京大学ビッグバン宇宙国際研究センター長( - 2001年3月、2003年4月〜2007年3月)。
2002年:紫綬褒章受章。東京大学理学部長、理学系研究科長。
2003年:21世紀COEプログラム「極限量子系とその対称性」拠点リーダー( - 2008年)
2005年:日本物理学会会長( - 2006年)。
2007年:東京大学数物連携宇宙研究機構主任研究員(併任)。
2009年:東京大学を定年退官。名誉教授の称号を受ける。東京大学数物連携宇宙研究機構主任研究員兼特任教授( - 2010年)。明星大学理工学部物理学科客員教授( - 2010年)。
2010年:大学共同利用機関法人自然科学研究機構機構長、明星大学理工学部総合理工学科物理学系客員教授(改組)、日本学士院賞受賞。
業績
京都大学大学院在学中より、師である林忠四郎の薦めに従い、超新星に関する研究を行ってきた。とりわけ超新星におけるニュートリノの影響に関する研究を行った。
1981年にアラン・ハーヴェイ・グースとほぼ同時期に、インフレーション宇宙論を提唱した。尚、この理論の最初の論文投稿者は、日本の理論物理学者である佐藤勝彦である。但し、"インフレーション"という言葉を最初に用いたのは、その後に論文投稿したアラン・ハーヴェイ・グースである。
2つのCOEの責任者を勤めるなど、理論物理学及び理論天文学分野では、海外でも評価の高い研究者である。 主として、理論物理学の標準理論の研究を天文学分野に応用した研究を推進してきた。
人物
京都大学大学院時代において、無給の助手として4年間に渡り研究を行う。博士号取得は、「超新星爆発におけるニュートリノによるエネルギー輸送」に関する研究の論文による。博士号授与後、精密な計算手法を確立し、何遍もの論文を書く、これによって京都大学助手に就任。その後、助手時代に書いた論文が認められ、北欧理論物理学研究所に赴任。ここで、一般相対性理論と量子力学の融合の研究を行う。この時に、提唱したのが、現在は「インフレーション宇宙論」として知られる論文。帰国後、京都大学から東京大学に移り、理学系研究科にて研究を行う。
「初期宇宙の探求」では、マグナム望遠鏡や富士山頂サブミリ波望遠鏡などの建設に際して、調印などの式典に参加。「極限対称系」では、超弦理論や超対称性理論の研究を行う研究者の招請などを行う。現在は、学内では数物連携宇宙研究機構において、主任研究員を兼務している。主な研究テーマは、数学から物理学へのアプローチなど。
著名なため、メディア等でも紹介される例が多いが、分かりやすく説明できるようにしている。
その他
一般相対性理論における、佐藤・富松解の業績で知られる、佐藤文隆(現:甲南大学教授)は同じ研究室の先輩にあたる。
インフレーション理論を提唱したときの逸話として、論文を提出したとき、師の林より素粒子物理学が専門だが、良く分からないと評されたことがある。
小柴昌俊教授のノーベル賞受賞発表時に、戸塚洋二と電話で実験研究などの打ち合わせをしていた。教授から、ノーベル賞受賞の記者会見への同席を依頼されたが、予定が付かずキャンセルになってしまった。
著書
単著
新しい宇宙の探究(岩波書店 1990年)
ビッグバン理論からインフレーション宇宙へ(徳間書店 1991年)
壷の中の宇宙(二見書房 1991年)
宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった(同文書院 1991年)
現代の宇宙像・宇宙はいかに誕生したか?(培風館 1991年)
宇宙96%の謎 最新宇宙学が描く宇宙の本当の姿 (実業之日本社 2003年)
アインシュタインの考えた宇宙 進化する相対性理論と最新宇宙学(実業之日本社 2005年)
眠れなくなる宇宙のはなし (宝島社 2008年)


四宮 和夫

四宮 和夫(しのみや かずお、1914年10月31日 - 1988年)は、日本の法学者。専門は民法、信託法。法学博士(東京大学、1962年)(学位論文「信託法」)。香川県三豊郡観音寺町生まれ。
人物
指導教官は我妻栄。歩く通説と呼ばれた我妻に対し、歩く反対説とも呼ばれた[要出典]。四宮の反対説の提示によって初めて論点化された論点も多く[要出典]、日本の民法学に多大な貢献をもたらした。信託法の研究の第一人者であり、その地位は弟子の能見に受け継がれている。各種国家試験の試験委員の任などを全て断り、晩年まで研究に集中していた。
学説
後掲『請求権競合論』は、債務不履行と不法行為等の請求権競合問題に関する論文で、民事訴訟法学における訴訟物における旧訴訟物理論・実体法説と新訴訟物理論・訴訟法説の対立を踏まえた上で、民法学の見地から新訴訟物理論の考え方を取り入れ、債務不履行と不法行為の要件及び効果を利益衡量の上一本化すべきとして新実体法説(のうち、全規範統合説)を主張した。奥田昌道が提唱した請求権二重構造説と同じ発想にたつ見解であるが、四宮は、奥田説では効果についてのみ規範が統合されるにすぎず不徹底であるとし、要件および効果を含め請求権競合問題全般についてすべての規範を統合すべきと主張した。利益考量論を主張した星野英一から発想としてはほぼ到達点に達していると評価されている。四宮は、一般論として、星野と同じく利益衡量によって具体的規範を提示するとしながらも、思考と伝達の経済を考慮し、その理由についてはできるかぎり単純な命題に置き換えるべきだと主張してやや我妻に近い立場を表明している。
経歴
1927年 香川県仲多度郡多度津小学校卒業
1930年 専門学校入学者検定試験合格
1931年 私立麻布中学第四学年修了
1935年 第一高等学校文科甲類卒業
1937年 高等試験司法科合格
1938年 東京帝国大学法学部法律学科卒業、同助手
1941年 同助教授
1952年 10月神奈川大学法経学部講師
1953年 4月同教授
1959年 4月立教大学教授
1965年 5月東京大学法学部教授
1975年 4月新潟大学法文学部教授
1978年 4月成城大学法学部教授
著書
『民法総則』(弘文堂、初版1972年、7版2005年)(5版以降は能見善久が共著の形式で継承)
『事務管理・不当利得・不法行為上中下巻』(青林書院)
『信託法』(有斐閣、新版 1989年)
『請求権競合論』(一粒社)


土井 虎賀壽

土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 1971年3月10日)は、哲学者・文学者。香川県出身。 人物
香川県木田郡の医師の家に生まれる。旧姓久保。第三高等学校理科乙類(医学)から京都帝国大学理学部(物理)へ進むが、哲学科へ再入学、1926年卒業、いったん実家に帰り女学校に勤め結婚する。しかし、二年で妻に先立たれ京都へ戻って大学院に進む。1929年、三高講師となる。1941年、三高教授、京都帝大講師となる。1948年、三高、京大を辞職、東京大学仏文科大学院に入学して二年間学ぶ。1953年、相模女子大学教授、学習院大学講師となる。1964年、獨協大学初代学長天野貞祐の招きを受け外国語学部教授となり、「哲学」・「外国文学」を担当する。
「土井虎(ドイトラ)」の愛称で親しまれ、京都学派の「異端児」・「奇人哲学者」として知られた。京都では西田幾多郎、田辺元、天野貞祐らに学ぶ。戦後、哲学から文学への転向を目指し、辰野隆に師事すべく職を捨てて東大大学院に入るが辰野はその年退官であった。しかし、この行動がマスコミに賞賛されたことから土井ブームが起こり、続けざまに『世界文学』などへの投稿や著書、またニーチェの翻訳を刊行する。1954年当時東大寺官長の上司海雲から「華厳経」のドイツ語訳を委嘱され、十余年の歳月を費やしこの難事業を完うする。土井哲学のスタ−トは「論理学」である。しかし、その根源に一貫して横たわるキ−ワ−ドは「悲劇性への意志」、ゲ−テの「敬虔性」、華厳の事事無礙としての「空の哲学」が予測できる。
三高時代から晩年の獨協大学まで、その授業風景は学生達の魂を揺り動かし巻き込む独自の風貌と世界があったといわれる。またその奇人・奇行ぶりは、三高での教え子だった青山光二の、『われらが風狂の師』に、土岐数馬として、しかし、家族の名前以外の固有名はそのままに描かれている。のちに武田泰淳の妻となる鈴木百合子(武田百合子)も登場する。三高では、田宮虎彦・野間宏・竹之内静雄・粟津則雄、そして、ノーベル物理学賞受賞者江崎玲於奈も土井の教え子だった。1950年、『ツァラトストラかく語りぬ』の翻訳を、『展望』誌上で「青木智夫」の名でこき下ろしたのは、ドイツ文学者・東大教授の手塚富雄である。また武田泰淳の、『ひかりごけ』の「異形の者」に出てくる哲学者は土井をモデルとしている。
結婚して虎賀壽は土井姓になったが、妻の土井杉野は、元東北大に学んだ学徒で、土井すぎのの名でアンナ・シュウエル『黒馬物語』の翻訳がある。土井杉野・長女土井佐保は晩年の土井の思索活動を最後まで支えた同志であった。
著書
単著
『「ツァラトーストラ」 羞恥・同情・運命』 岩波書店, 1936
『ヒューム』弘文堂書房, 1937
『原初論理学 』中西屋、1937
『触覚的世界像の成立』−ニイチェ 河出書房, 1939
『生成の形而上学序論 』(第1部 オイディプス王序論(フリードリヒ・ニイチェ) 悲劇性への意志)筑摩書房, 1941
『抒情詩の厭世 』(ゲーテからニイチエへ)創元社百花文庫, 1947
『ゲーテ箴言抄』秋田屋書店, 1947
『ゲーテとニーチェを結ぶもの』創元社, 1948
『斎藤茂吉とヨーロッパ的世界』 永言社, 1948
『生の祈願と否定の精神』八雲書店, 1948
『ニイチェの精神伝統』 新月社, 1949
『哲学から文学へ』新月社, 1949
『ゲーテのヒューマニズム』 評論社, 1949
『愛情の道化と救濟の知慧』( 「ファウスト」をめぐつて ) 糸書房、1949
『時間と永遠』 筑摩書房, 1974


中澤 清

中澤 清(なかざわ きよし、1943年2月13日 - )は、日本の男性惑星科学者、宇宙物理学者。専門は、固体地球物理学、惑星物理学。2009年現在、東京工業大学特任教授。
香川県坂出市出身。林忠四郎の弟子の1人として知られている。同じく林門下で京都大学天体核物理学研究室に学んだ佐藤勝彦とは同郷(ともに坂出市出身)。
略歴
1965年:東京工業大学理工学部物理学科卒業、京大大学院に進学し林忠四郎に宇宙物理学を学ぶ。
1970年:京大大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了。
1971年:京大助手。
1972年:理学博士号を取得。
1980年:京大助教授。
1983年:東京大学理学部地球物理学科助教授。
1987年:母校・東京工大に戻り理学部教授に就任。
1989年:第6回井上学術賞を受賞。
2005年:東工大大学院理工学研究科理学系長・理学部長。
2007年:理学部長を退任。


南原 繁

南原 繁(なんばら しげる、明治22年(1889年)9月5日 - 昭和49年(1974年)5月19日)は日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。
略年譜
明治22年(1889年)
9月5日 - 香川県大内郡南野村(現在の東かがわ市南野)に婿養子の父・貞吉(三好氏) 母・きくの次男として生まれる。南原家は母・きくの何代か前の甚左衛門が同村南野小井楠家より分家、屋号岸野屋と称し製糖業を営む。祖父・松蔵は組頭役を務めたが、母・きくの幼時にいたり家運傾き和裁の師匠をして生計を立てる。明治の初めまで姓を楠と称したが本家とともに南原(訓はみなみはら。のち、なんばらとなる)と改め、婿養子を迎えた。しかし、繁の幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔、母は2歳の繁を戸主として届け出る。
明治28年(1895年)
- 広瀬藤太郎、養父としてきくと結婚。
明治34年(1901年)
4月 - 香川県大川郡教員養成所に入所。
明治40年(1907年)
3月 - 香川県立大川中学(現・香川県立三本松高等学校)卒業。
明治43年(1910年)
6月 - 第一高等学校卒業。
7月 - 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。
大正3年(1914年)
7月 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。
大正6年(1917年)
3月 - 富山県射水郡郡長に任ぜられる。
大正8年(1919年)
1月 - 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。
大正10年(1921年)
5月 - 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセでフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。
大正14年(1925年)
8月 - 教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、昭和17年(1942年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。
昭和20年(1945年)
3月 - 東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。
12月 - 東京帝国大学総長に就任。
昭和21年(1946年)
2月11日 - 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。 3月 - 貴族院議員に勅撰( - 1947年5月)単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。 12月 - 貴族院において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。 昭和25年(1950年)
3月 - 退官。その後学士会理事長、日本学士院院長などを歴任。アララギ派の歌人としても知られ、歌集『形相』がある。
著作
『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)
『學問・教養・信仰』(近藤書店、1946年)
『歌集 形相』(創元社、1948年)
(復刻版 図書月販、1968年/ほるぷ出版、1975年/岩波文庫、1984年) ISBN 4003316711
『日本とアメリカ』(朝日新聞社、1950年)
『人間と政治』(岩波新書、1953年)
『フィヒテの政治哲学』(岩波書店、1959年)
『自由と国家の理念―政治哲学論文集』(青林書院、1959年/新版1965年)
『政治理論史』(東京大学出版会、1962年/新装版2007年) ISBN 4130301454
『現代の政治と思想 新しい歴史の転機に立って』(東京大学出版会、1963年)
『日本の理想』(岩波書店、1964年)
『文化と国家』 (東京大学出版会、〈上・下〉1968年/新装版〈全1冊〉、2007年) ISBN 4130010050
『歴史をつくるもの』(東京大学出版会、1969年)
『南原繁著作集 (全10巻)』 (岩波書店、1972-73年、復刊1984年、2006年)
『南原繁書簡集 付・南原繁宛書簡』(岩波書店、1987年) ISBN 4000015354
『政治哲学序説』(岩波書店、1988年、復刊1993年−著作集・第5巻) ISBN 4000011855
『聞き書 南原繁回顧録』(丸山真男・福田歓一編、東京大学出版会、1989年) ISBN 413033039X
『日本平和論大系13 南原繁』 (家永三郎責任編集、日本図書センター、1994年) ISBN 4820571540
『人間の記録70 南原繁 ふるさと』 (日本図書センター、1998年) ISBN 4820543156
『南原繁対話 民族と教育』(東京大学出版会、2001年) ISBN 4130030043
『わが歩みし道 南原繁 ふるさとに語る』(同刊行委員会編、東京大学出版会、2004年) ISBN 4130330497


三木 成夫

三木 成夫(みき しげお、1925年12月24日 - 1987年8月13日)は、香川県丸亀市出身の解剖学者、発生学者である。
丸亀中学から六高、九州帝国大学航空工学科、東大医学部と進み、東大助手を経て、東京医科歯科大学助教授、東京芸術大学教授となり教鞭をとった。
生前に出版された本は二冊(『胎児の世界』中公新書、『内臓のはたらきと子どものこころ』築地書館)にすぎないが、死後続々と遺稿が出版され、解剖学者・発生学者としてよりも、むしろ特異な思想家・自然哲学者として注目されている。
三木が思想的影響を受けた人物としては、冨永半次郎、ゲーテ、クラーゲス、宝井其角などを挙げることができる。自然科学者としての三木は、西欧近代の硬直化した機械論的、実証主義的立場から距離を置き、人間と自然との生きた自然感覚とでもいえるものを取り戻そうと試みた。そのことが、自然界の中で持っていた固有のリズムを喪失した現代人に、強く訴えかけるものを持っていると考えられる。
死後、ほぼ毎年、「三木成夫記念シンポジウム」が開催されている。


三木 茂

三木 茂(みき しげる、1901年1月1日 - 1974年2月21日)は、日本の植物学者。メタセコイアの発見者。
略歴
香川県木田郡奥鹿村(現・三木町)出身。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を経て、1925年、京都帝国大学理学部卒業、後に同教授。大阪学芸大学(現・大阪教育大学)教授、大阪市立大学教授を歴任。
和歌山県・岐阜県から、常緑樹のセコイアやヌマスギとは異なる落葉樹の植物遺体(化石の一種)を発見し、1941年にメタセコイアと命名、発表した。遺跡出土の植物遺体についても多くの考察を残した。


本山博

本山博(もとやま ひろし、1925年 - )は日本の超心理学者・心理学者・宗教家・哲学者・カリフォルニア人間科学大学院大学学長・国際宗教・超心理学会(IARP)会長・玉光神社宮司。香川県小豆郡(小豆島)出身。
略歴
1925年 - 香川県小豆島にて出生
1951年 - 東京文理科大学(現筑波大学)哲学科卒業
1956年 - 東京文理科大学大学院博士課程修了
1958年 - 東京文理科大学記念賞受賞(「東西神秘思想の研究」により)
1960年 - 宗教心理学研究所所長〜現在に至る
1962年 - 文学博士(哲学、生理心理学)東京文理科大学にて取得。アメリカ・デューク大学超心理学研究所よりマクドーガル賞授与。(「超心理学の電気生理学的研究」により)
1963年 - インド、ラジャスタン大学にてヨガの電気生理学的研究に関し研究と講義
1969年 - 70年 - インド、アンドラ大学大学院客員教授(超心理学、生理心理学)
1972年 - 国際宗教・超心理学会(IARP)会長 - 現在に至る。国際心理学会大会・心理生理学セクション議長
1976年 - インド、ヨーガ・ビハールスクール、スワミ・サッチャナンダ主宰、顧問。
1977年 - イタリア学士院アカデミア・チベリナ正会員、スペイン第2回世界超心理学会副会長
1979年 - アメリカ、オーハイ大学客員教授
1980年 - アメリカ「ジャーナル・オブ・ホリスティックメディスン」誌 編集委員
1983年 - インド、ヒンズー大学医学部ヨーガ研究センター海外委員
1987年 - 日本ホリスティック医学協会顧問
1988年 - ブラジル、国際オルタナティブセラピー学会にて特別講演
1989年 - アメリカ、フェッツアー財団にて特別講演
1990年 - フランス、第1回人体エネルギー国際大会にて特別講演
1991年 - 南カリフォルニア大学院大学(SCI)日本校設立・学長
1992年 - カリフォルニア・人間科学大学院 大学設立・学長、フランス、第2回人体エネルギー国際大会にて特別講演
1994年 - 本山人間科学大学院日本センター(MIHS)設立・学長
1995年 - カナダ、第3回鍼灸医学と自然医学国際大会にて基調講演
1996年 - J.B.ライン博士誕生百年記念賞受賞
1997年 - コスタリカ国連平和大学にて講演、米国UCLAメディカルセンターで行われた「仮想現実と超生物学」シンポジウムで特別講演
2000年 - コスタリカ政府関係者の招聘による講演会とコスタリカ国立大学でのAMI(本山式経絡臓器機能測定装置)ワークショップ(サン-ホセ)
人物
母の指導の下、幼少の頃より滝行や断食、般若心経の読誦などの修行を行っていた。クンダリニー・ヨーガに造詣が深く、立花隆によればその研究は世界的に有名であり、ユネスコ本部より世界の著名な超心理学者十人の一人に選ばれた。心霊手術やユリゲラーの超能力、外気功、福来友吉の念写の研究、霊の憑依現象、輪廻転生等に肯定的な発言をしている。また、本人の話によれば、母親が霊能力者であり(生みの親、育ての親2人とも)滝の水を逸らしたり、海の上を歩くことが出来たそうである。
備考
カリフォルニア人間科学大学院大学は小規模である等の理由によりカリフォルニア州における第三者評価機関の認定は受けていない、非認定大学である。しかしながらカリフォルニア州政府の認可を受けた州政府認可大学院である。このため、IARPのホームページでは米国カリフォルニア州公認の大学院大学と記載されている。 哲学者の湯浅泰雄は本山のもとでクンダリニー・ヨーガを学んだことがある。
本山はクンダリニー覚醒の経験者であり、覚醒時に体が宙に浮いたことがある、と言う。
他にも国際健康科学会会長、日本ホリステイック医学協会顧問、デンタルホリステイック医学協会顧問、日本ストレス学会幹事など多くの肩書を持つ。
博士論文は1963年12月に『宗教経験の世界』として出版され、後に『超感覚的なものとその世界』と改題、改版された。本書はユネスコより哲学部門優良図書に挙げられている。


保井 コノ

保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971年3月24日)は日本の植物学者。日本女性初の理学博士。学位論文は「日本産石炭の構造の研究」。元お茶の水女子大学教授。
1880年2月16日、愛媛県讃岐国大内郡三本松村[1](現・香川県東かがわ市三本松)で実業家の保井忠治とウメの長女として生まれた。香川県師範学校(現・香川大学)を経て女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業し、教員となる。
1914年から文部省在外研究員としてシカゴ大学、ハーバード大学で学び、帰国後は女子高等師範学校の教授と東京帝国大学理学部の嘱託を兼務した。 岩川友太郎らの指導を受け、東京帝大理学部では藤井健次郎と親交があった。
略歴
1898年 女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科入学
1902年 岐阜県立高等女学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)教諭
1905年 女子高等師範学校研究科入学
1907年 女子高等師範学校助教授
1914年 アメリカ留学
1919年 女子高等師範学校教授
1927年 「日本産の亜炭、褐炭、瀝青炭の構造について」の研究で東京帝国大学で日本初の女性理学博士となる
1949年 お茶の水女子大学教授
1955年 紫綬褒章受章
1965年 勲三等宝冠章受章


松木悠紀雄

大学教授,北里大学・高知医科大学,丸亀市出身


渡辺寛

渡辺 寛(わたなべ かん、昭和18年(1943年)3月 - )は、日本の歴史学者。元皇學館大学文学部教授。香川県出身。
専門は、日本古代史(法制史・伊勢神宮史)。 法制史の分野では、律令格式、特に『類聚三代格』研究において業績をあげる。 すなわち、前田家本『類聚三代格』の検討から12巻本と20巻本の2系統が存することを指摘し、『西宮記』の記述などからその成立年代を限定、また、鼇頭標目の校訂や東北大学附属図書館狩野文庫本の発見により新訂増補国史大系本を大きく改めている。 伊勢神宮史については、特に斎宮制度の研究に成果をあげる。
略歴
昭和42年(1967年) 皇學館大学文学部国史学科卒業。
昭和44年(1969年) 皇學館大学大学院文学研究科修士課程国史学専攻修了。同大学助手。
昭和48年(1973年) 皇學館大学文学部専任講師。
昭和52年(1977年) 皇學館大学文学部助教授。
平成元年(1989年) 皇學館大学文学部教授。
平成22年(2010年) 皇學館大学退職。


橋本仙太郎

郷土史家、女木島洞窟を発見、香川桃太郎伝説を提唱


柴野栗山

柴野 栗山(しばの りつざん、元文元年(1736年) - 文化4年12月1日(1807年12月29日))は、江戸時代の儒学者・文人である。名は邦彦であり、字は彦輔である。讃岐国(現:香川県)で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。
生涯
元文元年(1736年)に讃岐国三木郡牟礼村(現:香川県高松市牟礼町牟礼)で誕生する。父親の名は、柴野軌逵であり、母親の名は柴野於澤である。寛延元年(1748年)に高松藩の儒学者後藤芝山の元へ通い、儒学を習った。宝暦3年(1753年)に中村文輔と共に、江戸に赴き湯島聖堂で学問を学んだ。
湯島聖堂の学習を終えた柴野は、明和2年(1765年)に高橋図南から国学を中心に学問を学び、明和4年(1767年)に徳島藩に儒学者として仕えるようになった。明和5年(1768年)には徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度赴く事となる。
江戸に着いた後、安永5年(1776年)に徳島藩当主の侍読に就任する。天明7年(1787年)には、江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、寛政2年(1790年)に湯島聖堂の最高責任者となった。
文化7年(1807年)12月1日に死去した。


黒川知文

黒川 知文(くろかわ ともぶみ、1954年11月 - ) は、愛知教育大学教授、東京外国語大学講師、慶應義塾大学講師、東京神学校教授。聖書キリスト教会牧師。小説家。元東京基督教大学教授。
香川県小豆島生まれ。1978年東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業、1980年東京外国語大学大学院地域研究科修士課程修了を経て、1983年一橋大学大学院社会社会学研究科博士後期課程単位修得、1984年イェール大学大学院博士課程単位修得を経て、1995年東京大学大学院人文科学研究科博士課程宗教学宗教史学専攻修了(文学博士)。
専門はユダヤ人迫害史、ロシア正教史、キリスト教史など。1995年大畠記念学術研究奨励賞受賞。2002年日本宗教学会評議員。
大学一年生の時に原卓也教授の講義で分離派(古儀式派)とニーコン改革について聞いた。プーシキン、ツルゲーネフにもこの語が登場した。マルクス主義によるロシア研究が盛んな当時において、宗教的にとらえたウラジーミル・ロースキイの『ロシア民族の性格』は、プロテスタントの黒川にも興味深いものであった。
三年生の時にキリスト者平和交流委員会(CPEC)の呼びかけにより、ロシア正教会に招待され、キエフ府主教らと会った。ソ連の役人の同行付であった。大学の卒業論文は「ロシア正教史研究-ニーコン改革と分離派教徒」である。
2001年10月11日に尾山令仁牧師から按手礼を受け聖書キリスト教会の牧師となる。
著書
『一神教文明からの問いかけー』東大駒場連続講義ー 講談社 2003
『岩波キリスト教辞典』(共著) 岩波書店 2002
『ユダヤ学のすべて』(共著) 新書館 1999
『ロシア・キリスト教史』教文館 1999
『ユダヤ人迫害史-繁栄と迫害とメシア運動-』 教文館 1997
『ロシア社会とユダヤ人-1881年ポグロムを中心に』ヨルダン社 1996
『歴史のなかの地域』(共著) 岩波書店 1990


大久保彦三郎

大久保彦三郎(おおくぼ ひこさぶろう、安政6年(1859年) - 明治40年(1907年)7月19日)は、讃岐国三野郡財田上村戸川(現・香川県三豊市財田町財田上字戸川)、大久保森冶の五男、四国最古の私立学校・忠誠塾(後の尽誠学園)の創始者。香川県議会副議長。大久保ェ之丞の弟で剛石または在我堂と号した。


蓮井良憲

蓮井 良憲(はすい よしのり、1923年(大正12年)2月5日 - )は、日本の商法学者。香川県出身。
略歴
香川県立高松中学校四年修了。
高知高等学校文科乙類を経て、1947年(昭和22年) 京都大学法学部卒業、京都大学大学院入学。
近畿大学、香川大学、広島大学を経て、1971年(昭和46年) 九州大学法学部教授。
その後、福岡大学教授、大谷女子大学副学長。
学会・社会的活動
九州地方鉱業協議会委員、福岡県水洗炭業審議会委員、福岡県消費生活審議会会長等を歴任。


高畑常信

高畑 常信(たかはた つねのぶ、1941年(昭和16年)2月 - )は、日本の中国文学者である。主に中国の思想・哲学および書法・篆刻を研究。著書多数。
経歴
香川県高松市男木島の生まれ。昭和40年、香川大学学芸学部卒業。昭和46年、広島大学大学院中国哲学博士課程修了。平成2年、東京学芸大学教育学部助教授、のちに教授に就任。平成16年、徳島文理大学一般総合科目教授。


内海喩

内海 喩(うつみ さとり、生年月日不詳 - 2003年3月15日)は、日本の化学者。理学博士。専門は分析化学。特に微量陰イオンの定量法の研究で知られる。元東京工業大学理工学部分析化学教室教授。日本大学名誉教授。香川県出身。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京文理科大学(現在の筑波大学)卒業。2003年3月15日、急性心筋梗塞のため83歳で死去。
著書
『基礎教育分析化学実験』東京教学社・ISBN 4-8082-3010-0
『分析化学実験―基礎教育』東京教学社


青木繁伸

疫学者・統計学者:群馬大学教授


植松治雄

植松 治雄(うえまつ はるお、1931年8月-)は日本の医師。第16代日本医師会会長、財団法人日本学校保健会会長。 その他、厚生省医道審議会委員など歴任。医学博士(大阪大学、1960年)。香川県生まれ。
経歴
1955年 大阪大学医学部医学科を卒業
1960年 大阪大学大学院医学研究科外科系専攻博士課程修了。大阪大学文部教官
1965年 大阪市南区に診療所を開設
1970年 堺市北区中百舌鳥に植松医院を開設
1984年 4月、堺市医師会会長になる
1990年 この年から2004年3月まで大阪府医師会会長を務める
1992年 6月、日本医師会医療政策会議副議長に就く
2004年 同年4月から2006年3月まで日本医師会会長(第16代)
2004年5月 財団法人日本学校保健会会長


萱原昌二

萱原 昌二(かやはら しょうじ、1937年 - )は、日本の教育学者。専門は、日本史教育。
略歴
1937年(昭和12年) 香川県生まれ
1960年(昭和35年) 東京教育大学文学部日本史専攻卒業
1960年(昭和35年) 東京都公立学校教諭
1988年(昭和63年) 東京都立水元高等学校校長
1990年(平成2年) 東京都教育庁人事部管理主事
1992年(平成4年) 東京都立白鴎高等学校校長
1997年(平成9年) 筑波大学学校教育部教授・同大付属桐が丘養護学校校長
2001年(平成13年) 拓殖大学政経学部教職課程教授
2007年(平成19年)拓殖大学退職

合田正人

合田 正人(ごうだ まさと、1957年 - )は哲学研究者。代表的な日本のフランス哲学研究者。エマニュエル・レヴィナスやウラジミール・ジャンケレヴィッチの研究で有名。ユダヤ思想に造詣が深く、数多くの翻訳を手がけている。
経歴
香川県多度津町生まれ。一橋大学社会学部卒、パリ第8大学哲学科留学。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。学生時代は鈴木道彦、足立和浩、野沢協らの指導を受けた。
琉球大学講師を経て、東京都立大学人文学部助教授に就任するが、2004年、首都大学東京への再編に反対し辞職、明治大学文学部教授に就任。
なお実家は船舶検査代行、ボート免許教室、船の販売・修理等を行う株式会社合田マリンエンジニアリングである。
著作
『サルトル『むかつき』――ニートという冒険』みすず書房, 2006.8.
『ジャンケレヴィッチ――境界のラプソディー』みすず書房, 2003.8.
『レヴィナス――存在の革命へ向けて』筑摩書房[ちくま学芸文庫], 2000.6.(下記『レヴィナスの思想』の改訂版)
『レヴィナスを読む――「異常な日常」の思想』日本放送出版協会, 1999.8.
『レヴィナスの思想――希望の揺籃』弘文堂, 1988.6.


合田好道

合田好道(ごうだよしみち、1910年(明治43) - 2000年(平成12)2月6日)は、陶芸家。画家。香川県出身。
略歴
1910年 三豊郡豊濱町(現・観音寺市)に生まれる。父合田辧治、母まつ。
1925年 三豊中学中退(後の第68代内閣総理大臣 大平正芳と同郷・同窓)、別府移住。兄の影響で画家を志望。
1929年 上京。春陽会入選。
1930年 小山富士夫、鳥海青児、料治熊太、会津八一らと知り合う。
1939年 小山富士夫の紹介で浅川伯教を知る。
1942年 伊東安兵衛と喫茶をかねた工芸店「門」をはじめる。富本憲吉、石黒宗麿、北大路魯山人、荒川豊蔵、濱田庄司らの作品を陳列。
1946年 濱田庄司を頼り益子移住。たくみ工芸店益子出張員となる。円道寺成井窯で赤絵の仕事に就く。
1949年 柳宗悦、バーナード・リーチが益子来訪し、知り会う。
1952年 大誠窯、塚本窯、成井窯などを指導。
1974年 和田安雄を伴い韓国移住、金海窯築窯。
1980年 韓国を去り、益子へ帰る。
1981年 合田陶器研究所創設。
2000年 歿、享年89。


鎌倉 芳太郎

鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日 - 1983年(昭和58年)8月3日)は、染織家。沖縄県の首里城再建などに尽力する。代表著書に『沖縄文化の遺宝』がある。石垣市名誉市民。三木町名誉町民。
略歴
1898年(明治31)香川県三木郡氷上村(現・木田郡三木町大字氷上)生まれ。
1921年(大正10)東京美術学校図画師範科卒。沖縄県女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校の教職に就きながら、沖縄の美術工芸を研究した。その後東京美術学校助教授を歴任。1924年以降も沖縄で美術工芸の研究を続ける。
1944年(昭和19)東京美術学校退官。染織家として活動を始める。
1973年(昭和48)4月5日、重要無形文化財「型絵染」保持者(人間国宝)に認定。
文献
編著 『沖縄文化の遺宝』 本文・写真で2分冊 岩波書店 1982年
編著 『古琉球型紙』 全4巻 京都書院  1974年
『鎌倉芳太郎 型絵染』 <人間国宝シリーズ14>講談社 1978年
『琉球の織物』 京都書院 1979年
『東洋の彫刻 復刻版』 大空社〈アジア学叢書〉 2007年
補記
ノンフィクション作家与那原恵が、「沖縄の光を残した人・鎌倉芳太郎伝」を、「ちくま」2010年11月号(筑摩書房の月刊PR誌)より連載している。


猪熊弦一郎

猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、男性、1902年12月14日-1993年5月17日)は昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。
「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。 丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館には彼の作品が常設展示されている。 建築家丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は猪熊作である。
略歴
1902年12月14日 - 高松市に生まれ、丸亀市に転居。旧制丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)卒業
1922年 - 東京美術学校(現東京芸術大学)洋画科に入学し、藤島武二に師事する。
1926年 - 「婦人像」で帝展初入選を果たす。その後、「座像」で特選に選ばれるなどし、帝展無鑑査となる。
1936年 - 帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和らと新制作派協会を設立する。
1938年 - フランスに移り、アンリ・マティスの指導を受ける。
1940年 - 第二次世界大戦が勃発し、最後の避難船となった白山丸で帰国する。終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたる。
1951年 - 上野駅に壁画「自由」を完成。また、慶應義塾大学大学ホールの壁画「デモクラシー」と名古屋丸栄ホテルホール壁画「愛の誕生」で第2回毎日美術賞を受賞する。また、白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインも行ない、当時としては破格の報酬でも話題となった。
1955年 - 活動の拠点をニューヨークに移す。この時期から画風は一気に抽象の世界に移っていった。また、この時期は、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めたことでも知られる。
1973年 - 脳血栓で倒れてニューヨークを離れ、1975年からは温暖なハワイで毎年冬をすごしながら創作活動を続けた。
1980年 - 勲三等瑞宝章を受章する。
1993年 - 「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日美術賞を受賞する。同年5月17日急逝。享年90。


中原淳一

中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年(大正2年)2月16日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、イラストレーター、人形作家。姪はシャンソン歌手の中原美紗緒。美紗緒の長男は映画監督の室希太郎。孫は俳優・声優の加古臨王。
現在(2010年)でも人気は高く、彼が出版した本や雑誌などその多くが復刻されている。2000年(平成12年)より開館した山梨県河口湖の中原淳一美術館は閉館し、現在はアートガイア河口湖ミュージアムにリニューアルされている。 晩年の22年間を館山市で送った。
経歴
香川県大川郡白鳥町(現・東かがわ市)生まれ。1915年(大正4年)、2歳の時、父親の転職により一家で徳島県徳島市に転居。1924年(大正13年)、11歳の時、母とともに広島県広島市に転居、広島女学院付属小学校に転入。代用教員時代の杉村春子と知り合い、生涯にわたり交遊を持った。1925年(大正14年)、同小学校を卒業し母とともに上京。
おかっぱ頭の内気な少年で早くに父を失い、母と二人の姉に囲まれ、育った中原。姉たちと一緒に西洋人形を作ることが大好きだった。異国情緒あふれる人形が醸し出す独特の美の世界。「男のくせに」とからかわれても夢中になって作り続けた。中原が1931年(昭和6年)に作った少女人形は、細部まで精巧にデザインされた艶やかな衣裳で、まるで魂を宿したかのような存在感で大きな瞳が印象的である。
1928年(昭和3年)、日本美術学校入学。本格的に西洋絵画の勉強に励んだ。そんなある日、少女雑誌から挿絵の仕事が舞い込んできた。軽い気持ちで引き受けた中原。しかし、掲載された絵は読者を驚かせた。1932年(昭和7年)「少女の友」に掲載された『夏の便り』は、木陰に腰を下ろす着物姿の少女。その顔は長い睫毛に大きな瞳。まるで西洋人形のような顔立ち。当時、少女雑誌の挿絵は浮世絵の流れを汲んだ日本画的な絵が主流だった。中原の絵は異彩を放っていた。幼い頃からひそかに育んでいた美意識がそこに投影されていた。作家の田辺聖子は当時、中原の絵の大ファンであった。中原の作品から多大な影響を受けたという漫画家の池田理代子は瞳の魅力を「目線の特徴は焦点があっていない。微妙にずれていることによって、どこを見ているのかわからないような神秘的な魅力。瞳の下に更に白目が残っていて、これはやはり遠くを見ている目で今みたいなことを考えている。瞳が人間の心を捉えるという法則をよくご存知だったのではないか」と語る。中原の絵は少女たちの心を奪った。遠い世界に憧れ、夢見るようなその瞳。それは同時代に生きる少女の心を映し出していた。中原の元には少女たちから多くの反響が寄せられ、それは彼にとって大きな自信となった。
1932年(昭和7年)に銀座松屋にてフランス風人形の個展を開催し、19歳にして注目を集めた。これを機に雑誌少女の友の表紙、挿絵を手がけるようになり、一流抒情画家の仲間入りをする。しかし、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な中原のイラストが軍部から睨まれた。少女の友自体は戦前戦中戦後と休刊無く発行されているが、編集部が軍部の圧力に屈し、中原のイラストは1940年(昭和15年)を最後に掲載されなくなった。戦時中は海軍に水兵として徴兵される。
戦後に復員してすぐに出版の「ひまわり社」を設立し、1946年(昭和21年)に雑誌『ソレイユ(フランス語で太陽、ひまわり)』(後のそれいゆ)を創刊する。国土が荒廃し物資が不足していた時代に、生活を豊かにする方法を多くの女性に授けることで爆発的な売れ行きを示す。その内容は中原自身の手によって描かれた洋服のスタイル画。そこには着る物もない時代に到底そぐわない様々なファッションが描かれていた。中原は「こんな本はくだらないと言われるかもしれないが、お腹のすいている犬に薔薇の花が何も食欲をそそらないように。然し、私達は人間である。窓辺に一輪の花を飾るような心でこの『ソレイユ』を見ていただきたい」と編集後記で述べている。花道の大家勅使河原蒼風による生け花の手引き、本格的な美術総論など『ソレイユ』にはこんな時代だからこそ、美を求める心を無くさないでほしいとメッセージであった。その後、雑誌『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』を次々に創刊。掲載内容は、マナーなどの礼儀、洋服や浴衣の型紙、料理のレシピ、スタイルブック、インテリア、等幅広く一貫し「美しい暮らし」を演出した。
その活動の範囲は多岐にわたり、ファッションデザイナー、スタイリスト、ヘアメイク、作詞家、など様々な顔を持ち、若い女性の憧れや装いを提唱し続けるすぐれたリーダーでもあった。それらは敗戦のショックに打ちのめされていた当時の少女たちに夢を与え、大いなる慰めとなった。人気が高くなると共に、雑誌掲載の小物などを求めるニーズに応え「ひまわりや」を開店し、自身の手による商品も販売した。社団法人日本デザイナークラブのファッションショーに出品している。
大きな瞳の少女が再び現したが、かつて夢見がちだった少女の瞳は大きく変貌していた。そこには中原の深い思い込められている。新しい時代の到来。これからは確かな意思を持った少女として生きてほしい。それは中原が瞳の中にこめた心からの願いであった。
妻は宝塚歌劇団の戦前のスター、葦原邦子。雑誌『宝塚をとめ』の表紙を中原が手掛けたことが縁で知り合う。当時彼女は宝塚レビュー黄金時代を代表する男役スターであった。この時期の画風は妻の容貌に似た挿絵も多く、中原の葦原への思い入れがうかがえる。


宇川直宏

宇川 直宏(うかわ なおひろ、1968年4月12日 - )は日本のグラフィックデザイナー、映像作家、VJ、現代美術家、文筆家。香川県高松市出身。MOM/N/DAD PRODUCTIONS主宰。Mixrooffice代表。GODFATHER主宰。DOMMUNE代表。山本現代所属。京都造形芸術大学情報デザイン学科映像メディア科教授。日本自然災害学会正会員。2008年、人間以外の森羅万象全ての万物から見たビジョンのみを音と映像で構築するプロジェクトUkawanimation!(avex trax) を発足。2009年、そのプロジェクトから派生したレジデンツのマルチメディア・コスプレユニットXXX RESIDENTS(Yamaha A&R)を結成。2010年、ライヴストリーミングスタジオ兼、ライヴストリーミングチャンネルであるファイナルメディア「DOMMUNE」を個人で開局する。
概要
グラフィックデザイナー、映像作家、ミュージック・ビデオディレクター、VJ、文筆家、司会業、TV番組プロデューサー、レーベルオーナー、パーティーオーガナイザー、ファッションブランドディレクター、サウンド・システム構築、クラブオーナー、ライヴストリーミングスタジオ/チャンネルオーナー、大学教授、日本自然災害学会正会員、そして現代美術家と幅広く極めて多岐に渡る活動を行い、自らをメディアレイピストと称する。既成のファインアートと大衆文化の枠組みを抹消し、現在の日本にあって最も自由な表現活動を行っている希有なアーティスト。その創造性は彼を取り巻くすべての事象を対象に発揮され、フリースタイルで様々なジャンルを横断する全方位的活動をしている。
来歴
初期東京時代(1987-1994)
88年よりDTP第一世代のグラフィックデザイナーとしてアンダーグラウンドで頭角を現し始める(秋田昌美著『SCUM CULTURE』や初代『映画秘宝』のカバー<創刊後4年間は全て宇川デザイン>は当時の代表作)。この時期よりメルツバウの秋田昌美との交流が始まり、後に秋田の書籍を数冊デザインする。
同年BOREDOMSのEYEと出会い意気投合。直後、EYEの誘いを受けBOREDOMSのVJとして活動を開始。VJ黎明期よりシーンを牽引し、日本におけるオリジネイターの一人として認知される。当時より師と仰ぐ松本俊夫の実験映画の概念、またその精神をニュージェネレーションの側から隔世遺伝的に拡張し始める。
90年にはアルマーニのバッタ物を売りさばいて富を得た友人からいきなり手渡された現金100万円で、自身のCDレーベル『MOM’n'DAD PRODUCTIONS』を発足。その資金で最もエクストリームだった時期の『HANATARASH(ハナタラシ)』(ボアダムスEYEのNOISEユニット)のLIVEシリーズを立て続けにリリース。それらCDの余ったメディアに当時未踏の領域だったムーグ音楽を勝手に数十曲ブート収録→『Space Age Bachelor Pad Music』(このテイストを『research / incredible Strange Music』の2年前、『MONDO MUSIC』の4年前に世に問うたことになる)。そのことからメディアレイピストの異名をとる(後にその何処かの批評家がレコード評で書いた、通称"メディアレイピスト"を宇川自らが拝借〜現在に至る。よってこの冠は自称ではない。)
同年、DJ開始。当時Rockin'on誌のデザイナーであった大類信が経営する乃木坂のCLUB"THE DEEP"で月1回土曜日のレギュラーを持つ。その時期、宇川がプレイしていたのはラウンジ以前のMOOD音楽とデビッド・チュードアやモートン・サボトニックらの電子音楽、そしてMBやナース・ウィズ・ウーンドなどのノイズだった(奇しくも後に知り合うMOODMANも当時よく似た選曲をしていたらしい)。更に同じ"THE DEEP"のレジデントとして毎週金曜日にプレイしていたのは、あのDJ EMMA。同時期、宇川もハウスミュージックに傾倒、"芝浦GOLD"に通いつめる。この時期より高橋透信者となり、ヴォーギングを学ぶ。と同時に渋谷CAVEにも通い始めDJ KUDOのPLAYでテクノに開眼する。
91年執筆活動を開始。当時トレンドであった"バッドテイスト"や"悪趣味"の時流に乗り、渡米前後は十数誌に連載を抱えるそこそこの売れっ子ライターとして名を馳せた。(スタジオボイス『UKAWA’S Californian Shock Hunter』、スイッチ『Scandinavian childs Works(石原豪人との連載)』、Baf-out!『現実を制裁せよ!』、エレキング『西海岸☆積み木くずし』他)。この時期に中原昌也と出会う。
92年頃から、思想誌、文芸誌でも執筆を始める。中でも『コフィンジョー』と『東映まんがまつり・飛び出す人造人間キカイダー』と『ロバートエイブル』と『ビンスコリンズ』を同時空で語った『ユリイカ/悪趣味大全』への寄稿は、その後のスカム/トラッシュフィルムブームを予見した先駆的な論考として歴史に残っている。後には、オウム真理教事件をサブカルチャーの側から斬り込んだ椹木野衣編集の共著『ジ・オウム』に執筆参加。オウム真理教を筆頭に、YAHOWA13とユナリアスやブランチ・デビディアン、ガイアナ人民寺院他のカルト教団が"わすれ形見"のように残した音源を、独自の論点からディグし続けたカルトレコーディングス評が話題となる。
同年、武満徹が天才少年として賞賛したマジカルパワーマコの70年代の音源を、アーティスト本人の納屋からオープンリールテープで75本程発掘。その純朴な音楽性と尖鋭な実験精神に心打ちひしがれた宇川は、自身のレーベル"MOM’n'DAD PRODUCTIONS"から『HARMONIUM#1〜#5』として連続リリース。プロデュース、デザイン、リリース全てを自ら行う。なお、この時期のグラフィックデザイン代表作は80年代のハードパンクバンド"奇形児"のリイシューCDジャケット。
この時期より、灰野敬二と親交を深め『天乃川』というタイトルの70年代のエレクトロニクス音源を"MOM’n'DAD PRODUCTIONS"からリリース。姓が宇川だということもあり天乃川というタイトルに深い感銘をおぼえ、リリースに至った。
93年、新宿の特殊レコードショップ"ロスアプソン"の設立メンバーとして内装やグラフィックデザインに携わる。トラッシュ/カルトビデオレーベルである米SomethingWired社から"ロスアプソン"へのディストリビューションを担当する。この時期にMOODMANと出会う。
同年、表参道のクラブ"MANIAC LOVE"のチームが新宿御苑にオープンさせたクラブ"Automatics"の中のラウンジ"Atomage"でレジデントDJとなり、以降渡米までの1年間、毎週末PLAYする。なおメインフロアのDJは田中フミヤ、Q'HEY他。また"Atomage"はボンテージショップ"AZZLO"が経営しており、クラブ内にギャラリーが組み込まれていたので、宇川も何度かキュレーションを担当。中でも企画したタイの奇祭"ベジタリアン・フェスティバル"の写真展は当時の美術シーンを驚嘆させた。
94年、初来日中のキャロライナーレインボーのメンバー達と交流。即、意気投合。19世紀に実在したという"人間の言葉が喋れる牛"が書いたソングブックを基に活動するユニットであるキャロライナーレインボー。彼らと10日間寝食を共にし、そこで得た衝撃から、当時迷っていた渡米を完全決意。その時期、個人活動とは別に平行で関わっていた3Dアプリケーション『Infini-D』日本支社からの赴任依頼を受けており、奇しくも宇川は渡米を考慮していた最中であった。
94年、渡米。アメリカ・カリフォルニア州・サンフランシスコに移住。
サンフランシスコ時代(1995-1998)
95年、日本企業から与えられた住居とは別に、キャロライナーコミューンにも居を構え、リーダーであるGruxと親睦を深める。同時期、Grux の紹介でS.R.Lのマーク・ポーリン、THE ヘイタースのジュピター・ラーセン、スメグマ他、NOIZ/AVANT界隈の重鎮と交流する。
同年、ゴリラの生体をフィールドレコーディングする実験ユニット=マイ・ライフ・イズ・ア・ゴリラズ・ナッツをアメリカの友人数人と結成。
同年より日本の雑誌スタジオボイス紙で、現地取材をもとにした『UKAWA’S Californian Shock Hunter』連載開始。インカの女帝イマ・スマックやチャーチ・オブ・サブジーニアス、真性ネクロフィリアであるキャレン・グリンリーのインタビュー、S.R.Lのテスラコイル取材他、連載タイトルどおりの極めてハードコアな内容で、一部のな読者からカルト的な支持を得る。以降この連載は2年つづく。
96年。バトルDJ全盛期。週末は友人であったデビュー前のShing02らと共に、サンフランシスコのアンダーグラウンド小箱"CLUB DECO"に通い始め、DJ Q?BERTやインビジブル・スクラッチ・ピクルズのメンバーと交流。その後、自身のレーベルMOM/N/DAD PRODUCTIONS(この時期から表記変更)からDJ Q-BERTのCDを2枚リリース。CDジャケット・アートワークも自ら担当。
同年、平行して個人的にQ-BERTとD-STYLESを日本に招聘。新宿リキッドルーム他、来日ツアーを成功させる。対バンはEYE& 高木完のSOUNDHEROや、MOODMANとL?K?Oのターンテーブルユニット、DJケンセイ、MOOCHYとDJTASAKAのユニット他、オルタナティブなターンテーブリズム解釈でQ-BERTも大絶賛だった。
同年、バーニングマンを体験し、強烈な衝撃を受ける。そこで受けた影響からアメリカの友人達8人とデスバレーに2週間籠りファイヤーワークス・イニシエーションを受ける。チャールズ・マンソンの"ファミリー"が残した"ガービッジ・ダンプ"にも滞在。ここで生涯2度目のUFOを目撃。(このミステリーツアーのレポートは『暗黒地球の歩き方』というムックに詳しく掲載されている)
97年。BOREDOMSの初VIDEO作品『SUPER SEEEEE!!!!!!!』をサンフランシスコで監督、製作。ロスの実験アニメ作家ブライアン・ミドキフとコラボレートする。翌年、日本発売。後に DVDとしてリイシュー。"太陽が出来るまで"をアブストラクトにアニメ化したこの作品は、現在、モーション・グラフィックスの先駆として位置づけられている。
98年。サンフランシスコ時代のグラフィックデザインの代表作『UNITED TRASH』を制作。この作品はベルリンのアヴァンギャルド・フィルムメーカーであるクリストフ・シュリンゲンズィーフ監督による同名映画の正式ポスターのデザインと、組み立て爆撃出来るホワイトハウスのプレスキットからなる。ディストリビューターはアルバトロスフィルムで、この時期映画プロデューサーの叶井俊太郎と出会う。この仕事の取材でロスに行き、ラス・メイヤーの愛人であった巨乳女優キトゥン・ナティビタッドと交流、親睦を深める。
98年。ビザの都合でサンフランシスコより日本へ帰国。
帰国後〜現在までの活動(1999-)
1999年帰国後、ロンドン・バービカン・アート・ギャラリーでの「JAM展」を皮切りに世界各地で展覧会開催。
その後手がけたアートディレクションはボアダムズからブルガリまでと幅広く、VJ共演はジェフ・ミルズからメルツバウまで、執筆はニコラ・テスラ概論から石立鉄男研究までと、極めて多岐に渡る。
また同98年より宇川のオーガナイズにより始動した、高橋透、MOODMANとのDEEP HOUSEパーティー「GODFATHER」は、今年で12年目を迎え、現在のエクストリームハウスシーンを牽引し続けている。
2000年以降は、松本俊夫、田名網敬一、山口小夜子他、各界の巨匠とのコラボレーションワークも多数。
VJとしてもこの時期から活動が再炎。2000年のカウントダウンではBOREDOMSと久々に競演。
2001年より電気グルーヴの石野卓球と本格的に親睦を深める。その後日本最大規模の屋内レイブ「WIRE01」にVJとして参加し、以降10年連続出場している。また年末年始リキッドルームで恒例となった1日の夕方まで続く"死亡遊戯カウントダウン"にも卓球と2 人っきりで10年連続出演(2007年より2F LIQUIDLOFTのオーガナイズも宇川が担当することとなり、複数チームのVJが入り乱れるスタイルとなった為、1対1の共演からはシフトしたがこのコラボは現在も毎年継続)。毎年16時間以上にも及ぶウルトラロングセットが話題を呼んでいる。
その他フジロック、METAMORPHOSE、ローライフ、渚、ライジングサンロックフェスティバル他、国内外の野外フェスに毎年参加。今年VJ歴23周年を迎える。
記録としては、2004年新宿リキッドルームでのカウントダウンで石野卓球、EYEのDJと共に12/ 31日〜翌1/2日に渡り計33時間30分のVJを遂行。
ミュージッククリップ・ディレクターとしてはBOREDOMS、テイ・トウワ、SUPERCAR、THE ORB、DJ TASAKA、ギターウルフ、電気GROOVExスチャダラパー、capsule、MEG、ORANGE RANGE他、多くのミュージシャンを手がけ、またその全てにおいて先駆的な実験が施されている。
2002 エジンバラ・フィルムフェスティバル、2003 アルス・エレクトロニカ、2003 ワンドットゼロ、2004 RESFEST WORLD TOUR、などの国際デジタルフィルム・フェスティバル、またアメリカ、ヨーロッパ、アジア他、世界各国で数々のクリップが上映され、2003 SPACE SHOWER TV「MVA」BEST COMPUTER GRAPHIC VIDEO賞、2003 MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN BEST DANCE MUSIC賞、2009『SPACE SHOWER Music Video Awards 09』特別賞、他、受賞歴も多数。
グラフィック・デザイナーとしても先述したロンドン:バービカン・アートギャラリーでの「JAM展」の他、ニューヨーク:PS1/MOMAでの「BUZZ CLUB」、ソウル:ハジャ・センターでの「アクティブワイヤー」他海外のエキシビジョンへの参加歴多数。
作品集として「GAS BOOK7 / UKAWA NAOHIRO」、「RANGOON RADIO」
DVDとして「 UKAWA NAOHIRO/Scaning of Modulations」「SUPERCAR/HIGH BOOSTER U.N.V.J.WORKS」「BOREDOMS / SUPERSEEEE!!!!!!!!!」「RapiLLd i MOVEMENT/iLL X UKAWA NAOHIRO」他、DVD監修として「谷岡ヤスジのメッタメタガキ道講座」等。
2004年以降は本格的に現代美術の領域に踏み込み、ニューヨーク:トランスプラント・ギャラリーでのコーンとケナフの種の発芽発育に絡んだ領土争いを9.11の出来事に隠喩した「UKAWA NAOHIRO'S !!!
SEEDWARS!!!」を皮切りに、名古屋中京大学でのウズラを使ったサウンドインスタレーション「!!!UZULIVE!!!」、KPOキリンプラザ大阪での「DISCO UNIVERSITY - 田名網敬一×宇川直宏展」他、サンフランススコ、LA、ストックホルム、イスラエル、ソウル、東京、大阪、名古屋での展覧会を実現。
2005年の代表作は「電気グルーヴとスチャダラパー」のアートディレクションと、その楽曲「Twilight」の2本立てミュージッククリップ(2005 文化庁メディア芸術祭・審査委員会推薦賞)や、テイ・トウワのニューアルバム「FLASH」全国ツアーにVJとして参加、野宮真貴の「PARTY PEOPLE」デザイン&MV、「松本俊夫実験映画BOX」デザイン、大阪サントリーミュージアムでの「ガンダム展」への参加他、多数。
2006年も、ボアダムスのEYEとのコラボ展「ONGAROO feat.VIDEO NANOO」/京都ARTZONE、東京MAGIC ROOM、「FINALHOME/SAVIVAL ADICT展」への参加、その他キュレイターとしても「電気用品安全法(PSE法)によって消え行く危険性があるもの展」、『篠原有司男・暴走集会2006!!!!!!!! / 泥濘の鬼退治バイカーズ展!!!!!!!!』を企画、監修。そして石野卓球&川辺ヒロシの「InK」、中村弘二が主宰する「iLL」などのアートディレクションを担当するなど、常に様々なプロジェクトで起動。
同年は、電気グルーヴのフジロックでのVJを皮切りに主要な夏フェスを制覇。ラメルジーや、ESG、DJスニーク他、レジェンダリーなO.G.との競演も多数果たした。
同06年、渋谷のクラブ付き個人オフィス「Mixrooffice」をパートナーの他社比社と共にオープンさせる。独自の音響哲学によるサウンド・システム構築が話題を呼び、デリック・メイ、URのマッド・マイクからダニエル・ワン、ルチアーノ、ダニエル・ベル、ホワン・アトキンス、LOCO DICE、DJ NOBU、CxMxTまで世界中のDJから高い支持を得ている。
また同年秋にはジャパン・ファウンデーション主催による20人の日本の現代美術家を招聘するエキシビジョン「Rapt! - 20 Contemporary Artists from Japan」に宇川直宏が選抜され、日豪交流年企画の一環として最新作個展『Dr. Toilet's Rapt-up Clinic』がオーストラリアのメルボルンで開催された。その作品はマジックミラーで連なった5部屋の曼荼羅公衆便所を盗撮するもので、現代社会の法規網の穴に言及しながら公共空間の私的性/公共性を問う倒錯的なインスタレーションとして物議を醸した。(このインスタレーションは2010年にアップデートされ水戸芸術館現代美術センターで展示された)
2007年は文化庁メディア芸術祭の10周年記念と東京都国立新美術館のこけら落としを兼ねて、電子顕微鏡とモーションキャプチャーを使ったVJパフォーマンスを披露。更にでの個展『A Series of Interpreted Catharsis episode2 - earthquake』では筑波地震研究所で人工地震を起こし、モータードライブで連続撮影した写真作品と、ハイスピードカメラでその模様をおさえたハイビジョン作品を発表。人類の過去と未来に常に付きまとう予測不可能な自然災害への潜在的な恐怖と、人智の及ばない強大なエネルギーに対する畏怖の念、あるいはそれによってリセットされるであろう現状への密かな批判と期待を、鑑賞者に想起させた。07年秋の『六本木クロッシング』展(森美術館)では、この自然災害シリーズの一環として、台風を「生け捕る」作品『A Series of Interpreted Catharsis episode1 - Hurricane Katrina』を出展。台風被災者としての自らの体験をもとに、台風上陸前夜のアンビバレントな意識高揚の謎を考察した。07年12月19日、DVD作品集「INTOXICATING MUSIC CLIPS OF UKAWA NAOHIRO『MAD HAT LAUGHS!!!!!』」を発売。このDVDは今までに宇川が手がけたBOREDOMS、THE ORB、SUPERCAR、電気グルーヴ×スチャダラパーなどの「代表作」と言われるPVの殆んどを網羅。権利関係が複雑な日本では快挙といえる、複数のメジャーレーベルを跨いでの国内初のディレクターズミュージッククリップ集となった。
2008年1月、フロア契約満期の為、Mixroofficeは第一章に幕を閉じた。クロージングパーティーは!!!!!Mixrooffice E/N/D OF THE LxAxSxT Chapter!!!!!と銘打たれ、2007.12/31-2008.1/1の年を越えた、恵比寿リキッドルームでの22時間に渡るカウントダウン&カウントアップからスタートし、石野卓球、EYEらのHALFDAYS(12時間ロングセット)を挟み、約1ヶ月に渡り繰り広げられた。最終日の1/27は「mixrooffice rest in peace(2006-2008)24 HOURS PARTY FREAKS!!!Mixrooffice.R.I.P!!!!!ULTRA FINAL!!!!!」のタイトルで、オープニングのスヴェン・バスからエンディングのムードマンまで17人のマイクロ縁のアーティストが27時間に渡ってPLAYした。なお伝説になるであろうこの日にプレイされたラストのトラックは、ムードマンによる荒木一郎であった。3月、小学館の漫画雑誌『月刊IKKI』に作画MUSTONE、原作宇川直宏で、今世紀的妖怪漫画『ピンホールくん』が連載開始。この漫画は、田園都市線の電車の中に棲み憑くひとりの少年ピンホールくんが主人公である。"自然の摂理が排除された現代において、妖怪は人々の心の奥底へとそのすみかを変えている”という発想から、ピンホールくんは、この電車に乗り込んだ人々の想念へとチューンインし、妖怪と出会う。この連載は、煩悩が映しだす勧善懲悪を超えた幻想絵巻のスタイルをとり、新たな妖怪の定義を世に問うている。
宇川主導の音楽ユニット、UKAWANIMATION!を結成。これは人間以外の森羅万象全ての万物から見たビジョンのみを音と映像で構築するプロジェクトである。7月、リリース前にもかかわらず、FUJI ROCK FESTIVAL'08のレッドマーキー最終日の大トリにノミネートされ、デビュー。BOREDOMSのEYEの咆哮によって始まった初ライブパフォーマンスには、ニューヨークからビヨンセの振り付け師でもあるカリスマダンサー、ジョンテもメンバーとして参加し「フジロック史上屈指の耽美的エンディング」と語られる感動的フィナーレを演出。9月には当ユニットの1stシングル“惑星のポートレイト 5億万画素”がリリース。石野卓球作曲、宇川直宏作詞の表題曲にヴォーカリストとして萩原健一が参加した。なお、11月にはCD+DVDからなる1stアルバムUKAWANIMATION!/ZOUND TRACKを発売。このアルバムには上記の石野卓球x萩原健一に加え、BOREDOMSのEYEの伝説のアートコア・プロジェクトHANATARASH、糸電話でデリック・メイの「ストリングス・オブ・ライフ」を奏でた ストリングラフィや、田中フミヤ、ビヨンセ/マドンナ/安室奈美恵のコレオグラファー JONTExTOBY、FUTURE TERRORのDJ NOBU、アンダーグラウンド・ハードコアのイコン=アブラハムクロス、ハーシュノイズの極北メルツバウ、ガーリーポップアイコンのMEGまでが参加した。新しいミュージック・コミュニティーの確立を目指したこの前衛的な音と映像の問題作は、2008年の様々な音楽チャートに選出され話題になった。
2009年4月『SPACE SHOWER Music Video Awards 09』においてUKAWANIMATION!の様々なミュージッククリップが特別賞を受賞。「MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN 2009」においては、最優秀ダンスビデオ賞にノミネートされる。
2009年6月『ポップ・アヴァンギャルドのニューディメンション現出!!!!!!!』 と銘打ったUKAWANIMATION!の初のワンマンライブ『UKAWANIMATION! First LIVENIMATION!!!!!』-UKAWANIMATION! VS EBIS RESIDENTS- が開催。レコーディングに参加した多数のゲストが演奏に参加し、POPとアヴァンギャルド、エンターテインメントと現代アートを越境しながら1stアルバム『ZOUND TRACK』の世界をLIVEで再現した。またこのLIVEの為にサンフランシスコの謎の前衛集団レジデンツの楽曲を4つ打ちでカヴァーするユニットEBIS RESIDENTSを結成。目玉マスクの完全コスプレ、レジデンツの完全ダンスミュージック化を実現した。更にこの日、会場である恵比寿リキッドルームの2F、TIME OUT CAFFEギャラリーでは宇川直宏によるセレブリティー300人の偽サイン展『UKAWA'S TAGS FACTORY!!! 300 Counterfeit Autograph!!! 』を開催。今世紀はTAGで世界を開示出来ると宣言していた宇川が、知名度や希少価値、人気度や個人的想いによって様々な価値変動をみせる"サイン色紙" の世界に本格的に切り込んだ。本エキシビジョンは、様々な時代の、そしてあらゆるジャンルの著名人を、色紙というキャンバス上に並列サンプリングし、そして同価格で販売という価値の転覆を計る実験展示である。勿論(当たり前だが)ドローイングなのでエディション数1/1。なのに全てのサイン=autographはアンリミテッドエディションだというこの矛盾を啓発する試みでもあるという。


所幸則

所 幸則(ところ ゆきのり、1961年- )は、日本の写真家。
大阪芸術大学芸術学部写真学科卒業。フリーのフォトグラファーとして、雑誌、広告、写真集など活動をはじめる。国内をはじめドイツ、イギリスのポスターも手がける。独特な世界観で世界的に高い評価を得る。作品では初期作品から天使や妖精のファンタジー作品を発表している。ナンバーの表紙では北澤豪、長嶋茂雄、イビチャ・オシム監督、ストイコビッチ、ボブ・サップ、スピードスケートの清水選手などが有名作。広告では、cartier 、コカ・コーラ、アラン・シルベスタイン、コシノミチコ、コシノヒロコ、 WEST(ドイツ)、HERB & SPICE COMPANY(ロンドン)、 フジテレビ、日本テレビ、テレビ朝日、四国デジタルツーカー、 パナソニック、 ナイキ、Canon、カシオ、PARCO劇場、、三菱電機、リーバイス、日本リーバ、を手がけているが、 2007年世界フィギュアスケート選手権ポスターで安藤美姫、浅田真央、中野友加里、高橋大輔、織田信成、アイスダンスペア木戸・渡辺の6連張りのポスターは記憶に新しい。
独特な世界観をもち、現実と非現実を浮遊しているような奇跡とも言える作品は、 写真という枠組みを超え、世界的にも類いなアーティストとして各界から高い評価を得ている。
2006年に美術出版社から出された集大成的作品集「CHIAROSCURO 天使に至る系譜」をもって、 第一期 所幸則としてのキャリアをリセットすることを決意。 2007年より、モノクロームによる東京の渋谷のランドスケープを中心に新しい第二期所幸則としての作家活動を始める。 2008年に瞬間とは違った概念の時間軸を取り入れたOne Secondシリーズの制作を開始。 2008年秋には個展「渋谷1 Second瞬間と永遠」を渋谷で開催。
2009年5月にはEYEMAZING(オランダのファインアートフォトマガジン)で特集が組まれる。
略歴
1992年 - 世界写真見本市「フォトキナ92」日本代表作品出展
1995年 - 日本写真家協会と文化庁が選んだ「日本現代写真展」に出展(表現への試みで独自の方法論を模索し確立した写真家たちの部)、保存される。
1998年-4月東京都写真美術館「MEDIALOGUE 日本の現代写真’98」に出展。
2009年-9月「TOKYO PHOTO 2009」 GALLERY21より出展。


中山ダイスケ

中山 ダイスケ(なかやま だいすけ、本名:中山大輔、1968年1月7日 - )は、現代美術家、デザイナー、舞台美術家、アートディレクター。dnSTUDIO代表、株式会社ダイコン代表取締役社長。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科非常勤講師。東北芸術工科大学デザイン工学部グラフィック学科教授。
人物
1969年(昭和44年)、香川県丸亀市に生まれる。1988年(昭和63年)から武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に学ぶが、1990年に中退した。その後は演出家・飴屋法水に師事したのち、現代美術作家として独立した。
1990年代中期には須田悦弘、中村哲也、小金沢健人、坂東慶一らと若手美術作家のグループ『スタジオ食堂』を結成し、様々なイベントやプレゼンテーションを行った。1997年から活動拠点をアメリカ合衆国に移し、翌1998年にはニューヨーク市のギャラリー 「ダイチ・プロジェクツ」において、日本国外における初めての個展を開いた。
美術作家として個展やグループ展を行いながら、ファッショショーの演出、舞台美術、店舗や商品のコンセプトメークなどを手がけ、講演やワークショップ活動も積極的に行っている。私生活では2002年(平成14年)12月に、女優の鶴田真由と結婚しており、スポーツ全般、特にサッカーのファンでもある。


佐立七次郎

佐立 七次郎(さたち しちじろう、安政3年12月7日 (1857年1月2日)- 大正11年(1922年)11月5日は、明治時代に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教員。
経歴
1856年(安政3年)讃岐藩士の子として高松市に生まれる。
1873年(明治6年)8月 工学寮に入学する
1879年(明治12年)11月 工部大学校造家学科を卒業(同期に辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊がいる)。工部省技手となり、営繕局勤務上野博物館建築掛を命じられる
1880年(明治13年)10月 鉱山局勤務となり、秋田県院内鉱山建築掛を命じられる
1882年(明治15年)4月 会計検査院建築掛を命じられ、設計・監督を担当する
1883年(明治16年)7月 海軍省に転任し、横須賀鎮守府造船所在勤建築課員営繕掛となり、学舎教授掛兼務を命じられる
1884年(明治17年)5月 依願免官となり、藤田組に入る
1887年(明治20年)2月 逓信省に入り、逓信技師に任じられる。工学士の称号を認可される。
1888年(明治21年)郵便及び電信局舎建築法研究のため、欧米へ出張し、翌年帰国。
1891年(明治24年)10月 逓信省を辞し、建築設計事務所を開設する
1897年(明治30年)頃 日本郵船株式会社の建築顧問となる。
1912年(大正1年)12月 退社し、自宅で静養する
1922年(大正11年)11月 逝去(享年67)。遺言により、遺体は慶應病院において解剖される
 なお、作家・詩人の金子光晴の義祖父にあたる。


北山恒

北山 恒(きたやま こう、1950年 - )は、日本の建築家。現在横浜国立大学大学院教授、東北大学大学院非常勤講師、日本建築学会常任理事を務めている。
来歴
1950年 香川県に生まれる
1969年 東京都立戸山高等学校卒業(19歳)
1976年 横浜国立大学建築学科卒業(26歳)
1978年 大学院在学中に建築ユニット「ワークショップ」設立(共同主宰)(28歳)
1980年 横浜国立大学大学院修士課程修了(30歳)
1987年 横浜国立大学講師(37歳)
1995年 横浜国立大学助教授(45歳)
1995年 architecture WORKSHOP設立主宰
2001年 横浜国立大学大学院教授(51歳)
2007〜10年 東北大学大学院非常勤講師
現在 横浜国立大学大学院Y-GSA(Yokohama Graduate School of Architecture)教授


木村俊彦

木村 俊彦(きむら としひこ、1926年 -2009年 )は、建築構造家。建築家前川國男のアトリエ出身。半世紀に亘って日本を代表する数多くの建築作品に携わり、1980年代より槇文彦、篠原一男、磯崎新、原広司、安藤忠雄ら著名建築家の作品の構造設計を手掛けた。
略歴
1926年 香川県高松市に生まれる
1950年 東京大学工学部建築学科卒業
1950年 前川國男建築設計事務所入所
1952年 横山構造設計事務所へ移籍
1964年 木村俊彦構造設計事務所を設立
1977年 日本建築学会賞(業績賞)受賞
2006年 日本建築学会大賞受賞
2009年 5月27日死去、享年82歳


高谷時彦

高谷 時彦(たかたに ときひこ、1952年 - )は、日本の建築家。東京都文京区に事務所を構える。
来歴・人物 香川県立高松高等学校、東京大学工学部都市工学科卒業。東大時代は大谷幸夫に師事。槇総合計画事務所勤務の後、独立。槇文彦の著作『見えがくれする都市』(鹿島出版会SD選書)では、共著者の一人として「道の構図」担当。長岡造形大学、神奈川大学、工学院大学、東京大学などの非常勤講師を歴任し、現在東北公益文科大学大学院教授。
代表作品
1997年 - すきっぷ 建築設計資料94
1997年 - 横浜市立川和中学校多目的ホール・部室棟(横浜市) 新建築9901
2002年 - 幕張ベイタウン・コア(千葉市) − 千葉市優秀建築賞
2005年 - 日本建築学会 都市建築の発展と制御に関する設計競技 − 佳作入賞
2009年 - 鶴岡市立藤沢周平記念館(鶴岡市)


速水史朗

速水史郎(はやみしろう 1927年-)香川県多度津町生まれの彫刻家。
徳島大学工学部卒業、和瓦の技法を用いた黒陶と石彫の作家である。 特に石彫は、モニュメンタルな作品やパブリックアートが多く、東京都庁や国立科学博物館などをはじめ全国100ヶ所を超えるパブリックスペース等に作品が設置されている。 また平成17年度秋の叙勲において旭日小綬章を受章している。


中川幸夫

中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - )は、香川県出身の前衛いけばな作家。華道家、芸術家。代表作に「花坊主」「魔の山」などがある。
経歴
敗戦直後の日本で勃興し、数年間の隆盛ののちに収束した「前衛いけ花」の活動家として知られる。この頃には中川のほかに勅使河原蒼風、小原豊雲、中山文甫らが同様の活動をしていた。この極めてアーティスティックな花の表現運動は「流派」という大きな流れを頂点とするいけ花界ヒエラルキーをどのように維持してゆくかに執着する動きにはあわず、「古典のみなおし」という建前によって後退、収束を余儀なくされた。中川は「流派」に属さず「流派」を持たないことで、唯一「前衛いけ花」作家でありつづける事を貫いた。
3歳のとき事故による怪我が元で脊椎カリエスにかかる。地元の小学校を卒業後、大阪の石版印刷屋へ奉公に出る。その9年後に病が悪化し帰郷。祖父と伯母が池坊に属し「いけばな」をしていたことから、叔母のもとでいけ花を始める。
戦後の1949年、創刊されたばかりの専門誌「いけばな芸術」へ送付した花の作品写真が作庭家の重森三玲に認められ、世に名が知られるようになる。1951年、白菜を活けた「ブルース」という作品についての見解の相違がもとで家元と衝突、『決定的に自由であるために』(中川)池坊脱退声明を表し、33歳で流派を去る。「白東社」などの合同展を経て、1968年には東京で初の個展を開催。以後は、個展のほか音楽家・舞踏家等とパフォーマンスの開催をしたり、ガラス作品の制作や書も手がけている。
年譜
1918年 香川県丸亀市に生まれる。
1921年 脊椎カリエスを患う。
1932年 大阪にある石版画工房「近土版画社」に奉公、内弟子となる。
1942年 帰郷。池坊讃岐支部長を務めた祖父、その後をついだ伯母の影響で、いけばなを始める。
1944年 丸亀市の役場で兵事課に勤める。
1945年 今井實の印刷会社に終戦後から勤務。
1947年 池坊最高位だった後藤正一を京都に訪ね、立花を習得。
1949年 重森三玲(作庭家)の推挙で作品が「いけばな芸術」で紹介される。
1950年 重森三玲主催の家元否定のいけ花革新集団「白東社」に参加する。
1951年 池坊脱退声明を発して脱退。個人のいけばな作家として活動を始める。
1955年 「婦人画報」11月号の中川作品撮影のために、土門拳が丸亀を訪れる。
1956年 丸亀から東京の中野に転居する。
1960年 朝日新聞の「前衛を探る」で特集される。
1966年 NHK「日本の伝統いけばな」にテレビ出演。
1978年 前年に出版した作品集『華』が「世界で最も美しい本の国際コンクール」に入賞。
1981年 NHKラジオ・人生読本「花と人」に出演。
1985年 東京セントラル美術館にて「アートフェア'85」イベントでパフォーマンスを行う。
1986年 「家元王国・知られざる日本の伝統」(中村敦夫地球発22時)テレビ出演。
1990年 第40回砺波市チューリップフェアで気球によるオブジェ制作。映画「花いける」に出演、題字を書く。
1991年 日本テレビにて「美の世界花霊を求めて・中川幸夫」放映、大野一雄と共演。
1994年 週刊朝日に「おののき」一年間連載。
1997年 NHK日曜美術館にて「中川幸夫の世界・いけ花ではないがいけ花である」放映された。
  1998年 山口県立萩美術館浦上記念館・萩にて「鏡の中の鏡の鏡」を制作。
1999年 「織部賞グランプリ」を受賞。丸亀市文化功労賞を受賞。
2002年 第二回大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレプレイベント「天空散華・妻有に乱舞するチューリップ・中川幸夫『花狂』」十日町市博物館他・新潟。
2002年 映画「たそがれ清兵衛」(監督・山田洋次)の題字を書く。
展覧会
1949年
o 初個展「花個展 中川幸夫」大松屋百貨店・丸亀
1950年
o 「池坊全国選抜展」に出品 東京都美術館・東京
o 「第1回香川県いけばな展」に出品 高松市美術館・高松
1952年
o 「第1回白東社展」に出品 三越・大阪
1953年
o 「西日本選抜いけばな展」に出品 岡山天満屋・岡山
1954年
o 「第1回モダンアートフェア」に招待出品 大丸・大阪
o 「第2回白東社展『白東社小品展』」に出品 大丸・大阪
1955年
o 「第2回モダンアートフェア」に招待出品 大丸・大阪
o 「第3回白東社展『白東社野外展』」岸和田城本丸八陣の庭・大阪
1956年
o 「第3回モダンアートフェア」に出品 そごう・大阪
1961年
o 「中川幸夫・半田唄子 造形オブジェ展」二人展 なびす画廊・東京
1968年
o 初個展「中川幸夫 個展」いとう画廊・東京
1970年
o 「陶・宇野三吾/花・中川幸夫 展」青画廊・東京
1975年
o 中川幸夫・半田唄子 二人展「ガラス器に生ける」クラタ・クラフト・ギャラリー・東京
1981年
o ガラス作品の初個展「はながらす・中川幸夫展」ギャラリー412・東京
1984年
o 花楽としての初個展「花楽 水に花 ・中川幸夫展」銀座自由が丘画廊・東京
1985年
o 「はながらす中川幸夫展 花楽」新潟伊勢丹・新潟
o 「うぶすな中川幸夫展 はながらす」ギャラリー森・東京
1987年
o 「無言の凝結体・中川幸夫展」銀座自由が丘画廊・東京
1988年
o 「花の表現」展 埼玉県立近代美術館・埼玉
o 中川幸夫・三輪和彦との二人展「ばけるほのお」彩陶庵ぎゃらりい・萩
1989年
o 「墨五人展」に出品 草月美術館・東京
o 「中川幸夫の花・出版記念写真展」双ギャラリー・東京
1990年
o 「黒風白雨・中川幸夫展」双ギャラリー・東京
1992年
o 「天に翔る男たち展」に出品 ギャラリーいそがや・東京
1993年
o 「熊倉順吉・中川幸夫 二人展」アートスペースシモダ・東京
o 「はながらす」展 ギャラリー無有・東京
1994年
o 「前衛の四人展」に出品 現代美術資料センター・東京
1995年
o 「⊥、花中川幸夫展」ギャラリー森・東京
o 「おののき」自選展 ギャラリー小柳・東京
1996年
o 角偉三郎・中川幸夫 二人展「天花海漆」展  ギャラリーいそがや・東京
1997年
o 中川幸夫・荒木経惟「花淫さくら」展 ギャラリー小柳・東京
o 「中川幸夫展」ギャラリー飛鳥・東京
1998年
o 「鏡の中の鏡の鏡」山口県立萩美術館浦上記念館・萩
o 「etre nature」展に写真作品15点出品 カルティエ現代美術館・パリ
o 「中島修・中川幸夫展」ギャラリーTOM・東京
2000年
o オマージュ瀧口修造「中川幸夫 ・献花・オリーブ」展 ザ・ギンザアートスペース・東京
o 「中川幸夫展」パート1、2 ギャラリー小柳・東京
2001年
o 「FACTS OF LIFE」展に出品 ヘイワード・ギャラリー・ロンドン
o 「The Scent and Shape of Ink」展に招待出品 韓国国立現代美術館・ソウル
2002年
o 「天空散華・妻有に乱舞するチューリップ ・中川幸夫『花狂』」十日町市博物館他・新潟
o 「はなむすび」展 G-WINGS・金沢、ながの東急百貨店・長野
2003年
o 「中川幸夫 魂の花展」青竹ひらく霧島 鹿児島県霧島アートの森・鹿児島
o 「有隣荘・中川幸夫・大原美術館」 大原美術館・岡山
o 「中川幸夫展」銀座エルメスギャラリー・東京
2004年
o 「荒木経惟へのオマージュ」展 ガラス:中川幸夫/花:柿崎順一 北野美術館別館 北野カルチュラルセンター・長野
2005年
o 巡回展「花人 中川幸夫の写真・ガラス・書  いのちのかたち」宮城県美術館・宮城、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・丸亀
o 「書の春・夏・秋・冬、相応の裂を纏う 中川幸夫・麻殖生素子展」二期ギャラリー册・東京
o 「庭園植物記」団体展に出品 東京都庭園美術館・東京
作品集
「中川幸夫作品集」(自作、1955年)
「華 中川幸夫作品集」(求龍堂、1977年)
「ばけるほのお」(彩陶庵、1989年)
「中川幸夫の花」(求龍堂、1989年)
「花のおそれ」(誠文堂新光社、1992年)
「はながらす」(ギャラリー無有、1993年)
「魔の山 中川幸夫作品集」(求龍堂、2003年)
「花人 中川幸夫の写真・ガラス・書 いのちのかたち」(求龍堂、2007年)


菊池 寛

菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家でもある。本名は菊池 寛(きくち ひろし)。
香川県香川郡高松の生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だった。高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボっていたのが原因で除籍処分を受けた。
しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。
1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。
京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。私費で雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。
大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。 1925年文化学院文学部長就任。
1928年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。
麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。
また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は多くの有力馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていた事から観戦している。
太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。

高松市には「菊池寛通り」の愛称が付けられている市内道路があり(この通り沿いに生家があった。
2006年まで第一法規四国支社があった場所)、その道路近くの高松市立中央公園には銅像が建っている。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、1988年に香川県庁舎に面する香川県道173号高松停車場栗林公園線が「県庁前通り」と命名されたことに伴い改名したものである。
両性愛者の傾向があり、若い頃は旧制中学時代から4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。この少年との関係は大学時代まで続いた。
一高卒業を目前にして、友人佐野文夫の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたからであるといわれる。また正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の一人に小森和子がいる。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
1977年9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巌谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎の場合は、金ならありますと言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。永井荷風はそういう菊池の言動を嫌悪し、日記「断腸亭日乗」の中で散々にこきおろしている。
人材の発掘にも優れていた。文藝春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。古川青年は喜劇俳優「古川ロッパ」として成功した。2009年に清流出版で『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』が出された。
元・文藝春秋社編集者で、出版社・ジュリアンの代表取締役である菊池夏樹は、菊池寛の孫に当たる。2009年4月に『菊池寛急逝の夜』(白水社)を刊行。
馬海松を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。
名の「寛」は「ひろし」と読めば本名、「カン」と読めば筆名だったが、本人はどちらで呼ばれても特に気にせずに返答していた。ただし「菊池」を誤って「菊地」書かれるとすこぶる機嫌を損ねたという。
喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼けこげだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で長谷川の姉の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、長谷川の妹(当時東京女子大学在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。後に妹は文藝春秋に入社した(肋膜炎を患い退社)。長谷川は菊池に関し、妹から「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという。戦後の初期に執筆された『サザエさん』には、菊池が実名と似顔絵で登場するエピソードがある。

主要作品

屋上の狂人
父帰る
無名作家の日記
恩讐の彼方に
忠直卿行状記
蘭学事始
藤十郎の恋
菊池千本槍シベリア特別特攻隊
真珠夫人
無憂華夫人
貞操問答
三人兄弟
日本競馬読本
葬式に行かぬ訳
下足番

入れ札
慈悲心鳥
フランダースの犬(翻訳者として)


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